NHKの総合テレビで『お別れホスピタル』というドラマをやっていた。死間近の患者の世話をする医療者のドラマであり、死に行く人々の姿が映し出されてゆく。フィクションであり、誇張もあるとはいえ、身につまされる映像や場面が展開してゆく。わたしは、父の最期には臨席したことはあるものの、そのシーンでは、人工呼吸器を外してすぐに死の宣告だったから、最期に到る人のプロセスは見たことはない。そういう意味では、このようなドラマは、自らの最期を考える上でとても参考になる。

 生は、死という一点に向かって収束する。それは法則であり、それは公理でもあり、誰が何と言おうと不動の位置を占めている。これ以上の真理はない。ただ、老いの現時点から、死に到るプロセスは不定であり、多種多様なルートがあり、自分がどのルートを辿るかは、不確定要素に満ち満ちている。それは未来が不確定であるということで、当然であるが、若い頃に思う未来の不確定さと、老いたときの不確定さはかなり様相が異なっている。若い頃の不確定は、先がどうなるのかわからない不確定であるが、老いの不確定は、到達点が知れている。そのような未来を展望する経験は、もちろん初めてのことで、若い頃ならば、不確定な未来を少しでも自分に有利にしようと藻掻くこともできるが、老いの未来は、健康宣伝のサプリを飲んでみても、颯爽と歩き回ったりして、どんなに足掻いてみても、終点は不動の未来である。

 

 村田紗耶香の『消滅世界』という作品を読んだ。未来の架空の世界での話であるが、背景には、現在の生き物が背負っている宿命が炙り出される。

 その作品で描かれる世界は、繁殖のための交尾をしなくなった社会で、結婚という社会制度は存続しているものの、結婚し同棲しているカップルには、生殖という行為は排除されている。恋愛や性交は家庭外で行われるのが常態で、今の社会では、「不倫」と呼ばれることが、ここの世界では当たり前となっている。恋愛の対象は、生身の人間に限らず、アニメや漫画などの登場人物とも、脳内で性交して満たされる世界である。

 結婚して子どもを望むカップルは、人工授精で受胎し出産することになり、昔風の夫婦間の性交は、ほとんど行われていない。ただこの物語の主人公であるカップルの妻は、父母が、昔ながらの性交で妊娠出産を行ったことを、父親が出奔した後、母親から聞いて知ってはいるが、その事を社会的に容認されない不純なこととして、負い目と感じていて、夫にさえ秘密にしている。周囲の同僚たちは、結婚を望まない者もいれば、望む者もいるが、結婚しても子どもはいらないという人も多く、繁殖という点では、個々人が選択権を有し、親やその周辺からの社会的圧力とはなっていない。

 そんな未来の日本社会において、千葉県で初めて実験的家族システムの運用が始まった、というニュースが流れ、主人公夫妻も、ピクニック気分で千葉県に見学に出かけることにしたのだが、千葉県に入域するには、成田で入国審査を受ける。陸続きではあるものの、自由に行き来できるようにはなっていない。彼らは、見学を終えたらすぐ、そこからすぐに退去するつもりだったが、居心地の良さに負けて、居住申請をしてしまう。

 千葉県の先進的な社会システムは「楽園(エデン)システム」と呼ばれ、受精は決められた日に、希望者全員に一斉に処置される。人工子宮で男でも妊娠出産が可能となったと聞き知った夫も、初の男性妊夫として挑戦することにした。妻も同時に受精を受けるのだが、規則では、相手の生殖細胞は選べないことになっているが、どうしても夫婦として自分たちの子どもが欲しいと、夫婦間の卵子と精子を使うよう、伝手を辿って処置してもらった。受胎はしたものの、妻は途中で流産し、人工子宮を体外に着けた夫だけが出産までこぎつける。しかし、生まれた子どもは、センタで一括管理され、せっかく夫婦間の卵子と精子を使っても、自分たちの手で養育することは叶わず、どれが自分たちの子どもかわからなくなる。夫に、産んだ子どもはどれと訊ねても、大勢の子どもを差して、これだとすべての子どもを差し示すほどに、システムに順応してしまっていることに、妻は愕然とするも、諦めて、そのシステムを受け入れて行く。夫は、子どもを産み落とし、すべての子どもの「おかあさん」になることを、アダムとイブが暮らしていた楽園に戻ってきたと認識するようになってしまった。出産システムが運用されていても、依然として人々の性欲はなくなることはないので、外国で導入されていた「クリーンルーム」というのが、主人公の住む街の駅前に設置され、利用者は個室に這入り、個人データを入力し、視覚・聴覚・臭覚が電子装置で刺激され、1ないし5分くらいで素早く、通勤途上でも身体の性欲が「クリーンアップ」できる。性欲に煩わされることなく、人々は穏やか自宅や職場に向かうことができるようになった。

 実験都市の子どもたちは、生まれるとすぐ、まるでキャベツ畑のように見える保育器の並ぶ部屋に集団で入れられ、その後は14歳まで施設で養育される。外で遊んでいる子供たちの姿を見かけても、大人たちは、彼らをいずれも「子どもちゃん」と呼び、子どもたちは、大人を、男女を問わず皆、「おかあさん」と呼ぶ。そんな環境の中で、妻の心の中にも、今まで「本能」とか「生理的」と信じていた感情や情動とは全く違うものが体の中に芽生えは初めて来たのを感じる。最後に、「子どもちゃん」と「おかあさん」である妻が、交接する場面があるのだが、知恵の実であるリンゴを食べる以前のアダムとイブを思わせるようで、そこから新たな人間の歴史が作られる、というような意図が見える。人類ではなく人間の、というところがミソなのかもしれない。人類というと、生物学的な論理の組み立てが必要になり、記述には学術的な準備が必要になるが、人間だけを扱うなら、作家の自由な発想だけで構想を組み立てられるからである。そのため、不思議な、SFというには、サイエンスの要素があまり感じられない。生殖小説とでも呼べばいいのか、生き物と生殖が、いかに結びついているかを考えさせられる作品であった。

 この世は物質で出来上がっているが、その元の物質は、宇宙開闢のときできた水素やヘリウムなど軽い物質が、生成消滅を繰り返す恒星の中で、より重い元素が作られ、今日の百種類もの元素となっている。元素はさらに結合し、分子、さらには有機分子、アミノ酸、自律的運動をする生命体まで作られてきた。いまだすべて解明されているわけではないが、とにかく宇宙にある材料で、長い時間をかけて、地上にあるすべての生命体は作られてきた。細胞には寿命があり、一定の時間が経てば壊れてしまい、生命は維持できなくなる。そのため、寿命が尽きる前に新たな細胞を生み出す仕掛けがあり、その仕掛けを用いて、生命活動が何代にも亘って維持できる仕組みになっている。そのような生命全体の維持が、個々の、細胞の集合体である個体に課せられた任務で、そのために存在している、というのが、生きているものに求められるすべてであり、それしかないのである。生命体の根底には、本人が意識しようが意識しまいが、次世代の生命を育むことが、確固としてプログラムされている。人類の、その根本的な課題がそろそろ怪しくなっているのではなかろうか、というのが、最近頓に頭の端に浮かんでくる。

 これまで、地球では五回生物の大量絶滅が起きている。種の半数以上が、後の世代を作ることができなくなって滅んでいる。それでも、残された種は、その期間を潜り抜けて、今日に到っているのだから、やはり生命体のはしたたかである、と言わざるを得ない。生命体の生存戦略は、種だけに限ったことではなく、種を超えて生命体全部の絶対命題とすれば、五回の大量絶滅を経て、未だいくつもの種の生命体が生存しいている意味が見えてくる。

 人類という種に限って眺めてみれば、今日、先進各国で少子化が問題視されている。少子化対策として、政治場面では、子育て支援だと称して、経済補助さえすれば、少子化を食い止められるという楽観的な、場当たり思考で対策を練っているが、少子化の原因を探ることもせず、お気楽な方策と断じてよいだろう。

 先日、ある新聞紙上に内田樹氏が書いていた。わたしの考えと近いので、共感を以って読んだ。曰く、「非婚化・少子化という現象を多くの論者は『カネの話』に矮小化して語る」多くの批判に晒されててもまだその座にしがみついている岸田首相が発した「異次元の少子化対策」は、重篤な疾に絆創膏を張るようなもので、そのトンチンカンさに本人も周囲も気づかないというのは、彼ら自身が重篤な疾に罹患しているといえるだろう。人口が減ると、年金制度が維持できないとか、経済活動が停滞する、などという理由では、戦時中、産めや増やせやと、兵士増産を呼び掛けた戦犯たちと同じレベルである。ちょっと思考能力があるのなら、少ない人口でも経済活動が成り立つ方策を考えるのが、真っ当な頭脳というものであろう。内田氏は、未熟な親として子育てし、家庭を組み立てて行くことで、人として成熟してゆくのだ、わたしたちの社会が生き延びるために必要なのは、このように成熟していゆく大人であり、人の道、情理に通じた人々なのだと述べている。真っ当な意見である。ただ、少子化が社会の問題に留まっているのならば、正論であり説得力があるのだが、それ以上の問題も内包しているように思えるのだ。

 生き物は、個体密度が高くなると、棲息密度を減らすような仕組みができている、といわれる。わずかな餌を大勢で漁れば、すべて死滅してしまうのだから、生存戦略としては、餌が無くなる前に、個体数を減らして、わずかな餌でも種を維持する方が、合理的である。人類の個体数は80億を超えたが、そろそろピークに達し徐々に減少するだろうという予測もある。そもそも先進国では、都市に人口が集中する傾向があり、その過密さがストレスとなり、出産を抑制する生物本来のスイッチがオンになっているのでないか、という指摘もある。もし、その指摘が妥当ならば、そんなところにいくら子育て支援だと、カネをつぎ込んでも効果ない。内田氏の正論にも限界が見えてくる。そうなれば、対策は都市への人口集中をなくすことしかない。まずは、ストレスから、生殖を望まない人々が増加しているのか、その真偽を確かめるべきであろう。原因も知らず、闇雲に走り回るのは、愚の骨頂である。とはいえ、『消滅世界』のように、人工授精で、出産数を稼ぐのも、予測できない新たな問題を派生させる可能性が大いにある。生殖は、生命の基本的手法であり、その根底に立ち入ることは、いわば神の領域に踏み込むことになる。自然淘汰で消滅することころを、より加速的に絶滅にいたる、眼に見えない危険性を孕んでいるかもしれない。自然に勝る人工はない。ただ、生命に関しては、人間といえども、虫けら同然であることを自覚すべきだろう。知恵あるホモサピエンスでいたいならば、擦り切れた幟に記されたキャッチコピ―のような「異次元の少子化対策」などという語句に惑わされずに、事の本質を思考をすべきである。

 いずれ、地球上に一切の生命体がいなくなることは、天文学的な未来である。その前に人類も種の最期を迎えることになるだろう。現在から先を眺めるのではなく、先から現在を捉え考える知恵を身に着けておく必要があるだろう。自分の死を不動点として、そこまでの途上にいる己の今日明日の生活を眺めることを、今訓練中なのである。