獰猛だった(うん)()も去り、秋の(しるし)が日々濃くなってゆく時節、出勤の身支度前の(さい)が、名残の朝顔の様子を見に庭へ出た。初夏から続く彼女の日課である。娘が朝食を終えたころ、薄ら笑いを口の端に浮かべながら、堰を切ったような勢いで居間に飛び込んできて、溜め込んでいた息を一気に吐きだし、口にした言葉は、

「こんなのがいる!」

両手の人差し指で二〇㎝くらいの間隔を作っている。まったく意味不明である。何が、どうしたと問いかけても、返答はなく、

「とにかく見て!」としか言わない。

意味不明の言葉に付き従うのは、甚だしく迷惑なことではある。しかし無碍に拒否するのも、彼女の緊迫具合からして困難なことと、即座に判断して、面倒くさいなぁ、という気持ちで渋々玄関に向かった。後ろに着いてきた妻が腰を引きながら、肩越しに指示する。

「東側の朝顔」

家の東側にも朝顔の蔓棚があるので、そっちに回ろうとすると、

「目の前にあるでしょ」という指摘。

玄関は南向きで、そこから直近にある蔓棚は、右手にあり西側である。勝手に狼狽した上に、方向感覚も混乱している。玄関のドアから直ぐ脇の西の蔓棚に視線を向けても、焦点を定めるべきところがわからない。指を差されて、やっと位置が特定できる、具体的な情報を得たことになる。こんな単純なことに至るまで、どれだけの困難、悪路が必要なのだろう。人生とは苦難の途なのだ、ということがよく分かる一例である。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」と遺訓した家康の気持ちの一片を齧った気分になる。

 その先に目を凝らすと、枯れかかった蔓や葉と同系色の見慣れないものがいた。それにしても、二〇㎝は大袈裟で、せいぜいその半分、一〇㎝がいいところである。胴回りが直径一㎝ほどの芋虫だった。擬態がよくできていて、一目では捕捉しづらい。普段見慣れている芋虫は、一、二㎝くらいだから、それに比べれば、巨大と驚く気持ちもわからないではない。この時点でやっと、事の次第と妻の感覚が合点できた。

草毟りに使っている革の手袋を嵌めて、そいつを蔓から引離そうと抓んだら、身体を丸めて七、八㎝に縮まった。がっちり蔓にしがみついていたのか、大きいこともあり、生半可な力では引き剥がせなかった。小さな芋虫なら、その場で踏んづけてしまうのだが、さすがにこの大きさだと、飛び出してくる緑色の内容物も半端でなく、履物を汚す懼れがあるだろうという想いに到り、六〇mほど離れた、車の行き交う道路にまで行き、そこに放置した。まだ、早朝ということもあり、通りは閑寂(かんじゃく)としている。その道路のセンターライン近くの、なるべく車の轍から離れていそうな位置に置いた。運が良ければ、危機を逃れることができるかもしれないと踏んだのだ。芋虫版ロシアン・ルーレットである。

 この日は、ゴミ出しの日であった。集積場所は、先刻の車道から引き込まれている(こみち)の中間点付近にある。芋虫を道路に置いてから一〇分くらい経過した頃、ゴミを出しに行き、ついでに件の車道まで芋虫の運命を確かめに向かった。結果は、……終わっていた。放置したところから動いた様子もなく、その場に緑色の染みと、皺んだ表皮の残滓(ざんし)が見えた。淡いながらも生き延びることを期待していたので、わたし自身も踏みつけられたような痛痒を感じた。後で調べたら、この芋虫は、エビガラスズメというスズメ蛾の幼虫だった。成虫は七、八㎝の大きさで、フランスの三角翼ジェット戦闘機のような姿をしている。ジェット戦闘機のような素早さで飛翔するとは思えないが、スズメ蛾のなかには、時速五〇㎞で飛ぶ種もあるという。宙を飛べない人間からすれば、実に羨ましい能力ではある。そんな浮遊や飛翔を体験させることもなく、殺生してしまった。アスファルトの路面に印された痕跡を目にしたら、以前働いていた職場での出来事を想い出した。

 

 わたしの職場のあった建物の隣は、国のいくつかの機関が這入っている合同庁舎で、その11階に、法務省の外局である出入国管理事務所があった。わが仕事場のある窓からは、その建物の駐車場しか見えないのだが、仕事の合間に窓の外に目をやると、ヒジャブを被った女性や、浅黒い肌をした開襟シャツ姿の男性など、ビジネス街の労働者とは明らかに違う人々の往還する姿が目についた。とはいえ、わたしもビジネス街には似つかわしくない姿をしていたので、彼らに感じた異端さは、わたしも同僚たちから同様に感じられていたことだろう。

 

 ある日のこと、昼食を摂ったあと、歯ブラシを口に咥えて執務室でウロウロしていたら、窓の外の人々が、巣を壊された蟻のように蠢くのが見えた。ほどなくして、救急車のサイレンもかすかに聞こえてきた。いつものようにまた、庁舎内で具合の悪くなった人がいて、搬送されるのだろうと思って、そのときの騒ぎは、特に気に留めることもしなかった。

 午後も半ばの頃、隣のビルの地下売店に行く用事ができ、出入り口の巡視詰所前を通り過ぎるとき、ふと昼休みの騒ぎを想い出し、窓口にいた巡視に昼休みのことを尋ねた。すると予想もしなかった話を聴かせてくれた。

飛び降り自殺があったのだという。巡視は、稀有な体験を身内に留め置くのに耐えきれなかったか、話はそれだけに止まらず、さらに詳細に分け入った。出入国に際してか、あるいは滞在中に何らかのトラブルに見舞われた外国人が、入管の事務室に突然這入ってきて、窓に向かって走り出し、そこから一気に飛び降りたのだという。昼休みで職員は少なく、誰何して足止めする間もなかったらしい。巡視は詰所内で、ドサっという大きな音を聞き、外に飛び出したら、血の海に飛び散った肉塊と、割れた頭蓋から噴き出した脳漿が溢れているのを目にした。遺体を運び去った後には、拾い切れなかった肉片と血溜まりが残されており、頼まれたわけではないが、デッキブラシとバケツを持ち出してきて、痕を洗ったというが、そのときはまだ、洗って濡れた路面だけが、黒く残って見えていた。その落下場所は、通勤時に通る所で、視ようと意図しなくても、通る度に視線がそこに泳いでいった。血の跡は、洗い水が蒸発した後も、長らく黒くなって残っていた。事情を知っているわたしは、その場所を踏まないように避けて通ったが、事情を知らない人は、何らの忌避を抱くこともなく、黒くなった残痕を踏みつけて通っていた。

 いま、多くの人々が居住し生活している土地では、過去幾多の殺し合いが行われたかも知れない。災害や事故などで不本意に死んだ住人や行旅人の血に染まっているかも知れない。それなのに、人々は何食わぬ顔でその場を踏みつけたり、住み込んでいたりする。知らぬことは、なかったことなのだ、と納得して生きている。地上には、幾多の古人の嗚咽や慟哭が浸み込んでいることだろう。累々と屍が堆積しているはずなのに、人の目には見えないし、声も聞こえない。生きる人々は、ただ束の間の春を娯しみ、恋に身を焦がし、時間に追われるように枯れてゆく秋を待っている。

 

 雨が降るまで、芋虫の遺体の残痕は幾度も車に轢かれていた。雨が降って、印は消えたが、わたしの記憶には未だ残り続けている。このエビガラスズメの大きな幼虫が、蛹になることもなく、ましてや空中を飛翔することもなく命を喪失した朝、天高く澄明にして透徹した碧い空に白雲が(びょう)(ぜん)とたなびき、バイカウツギの葉が(さや)かに浮かんでいた。その明瞭さに命というものの哀切を思う。たかが芋虫一匹の命とはいえ、ここに至るまでに幾代の経絡があっただろう。それがこの晴朗な朝に絶息した。絶命する正当な理由もなくである。その経過の渦中にいたのは、わたしであり、その行為の酬いを受けても何も抗弁できはしない。万物の霊長などと肩肘張ってみても、人の命は芋虫同様である。嗚呼やはり、人も他の生き物同様、ただ生まれ、ただ死ぬことしかできないのだ。谷川俊太郎のとある詩から援用するなら、「生まれ番い死ぬ」。わずか七文字で片が付くほどのものなのだ。命を想えば想うほど、この清明な大気の有する空虚さが身に迫ってくる。命を収めておくのに、これほどの空洞が必要なのだろうか。

 

 この朝の絶命を記す墓碑銘(エピタフ)として、谷川俊太郎の詩を最後に飾っておきたい。

 

「生まれたよ ぼく」    谷川俊太郎

生まれたよ ぼく
やっとここにやってきた
まだ眼は開いてないけど
まだ耳も聞こえてないけど
ぼくは知ってる
ここがどんなにすばらしいところか

だから邪魔しないでください
ぼくが笑うのを ぼくが泣くのを
ぼくが幸せになるのを

いつかぼくが
ここから出て行くときのために
いまからぼくは遺言する
山はいつまでも高くそびえていてほしい
海はいつまでも深くたたえていてほしい
空はいつまでも青く澄んでいてほしい

そして人はここにやってきた日のことを
忘れずにいてほしい