今日の午後からは雪になりました。櫛田川の枯れ野に雪が積もりました。葉っぱを落とした小枝にはふんわり粉雪が舞っています。
紀伊半島に雪が降るのは珍しいことではありません。鈴鹿山脈の御在所岳にはスキー場がありますし、奈良県の吉野は平安時代から雪深いところだと文献にあります。このように山間地ではともかく、平地で積雪は一年でも数回あるかないか。
西の空には雪雲がどんどん湧き起こって、東の空は青空が見えています。吉野では雪も深々と積もっているのでしょう。
鎌倉時代の勅撰和歌集に「新古今和歌集」があります。藤原定家がこんな短歌を詠んでいます。
駒とめて 袖うちはらふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ
承久の変を起こした後鳥羽上皇は28回も熊野詣でをしています。都から熊野まで往復すると半年はかかります。上皇の治世で言えば、10ヶ月に一度は熊野詣でをしていたということになります。上皇は風流の方で歌会を催しました。その頃の歌人と言えば藤原定家も熊野御幸にお供していました。その様子は、「後鳥羽院熊野御幸記」に記していて、住吉社・厩戸王子・湯浅宿・切部王子・滝尻王子・近露宿・本宮・新宮・那智で行われました。
馬を止めて、袖にまとわりついた雪をさっと払いのける蔭もない。佐野の渡りには夕暮れが迫っている。
新宮で歌会を催しているので、佐野を奈良県桜井市狭野と見る学者もいますが、これはどう見ても和歌山県新宮市の佐野です。都から熊野三山に至るルートは小辺路、中辺路、大辺路と伊勢路がありますが、新宮の佐野を回っているので中辺路ルートをたどったのでしょうか。
自分が興味があるのは、新宮の佐野で雪が降っているという事実です。那智勝浦町には那智大社、新宮市には速玉大社、田辺市に本宮大社があります。佐野はちょうど那智大社と速玉大社の中間にあります。いったいこんな南国で雪が降るのか?
9世紀から13世紀は中世温暖期と言われるように暖かい気候が続きました。吉田兼好は「徒然草」で家は夏を主体に考えて建てるべきで、冬は何とかなると書いています。つまり、兼好法師の頃は、冬も温暖であったことが推測できます。
それにしても紀伊半島南端での降雪。実はこのあとは小氷期が始まります。定家が佐野で詠んだ一首は小氷期を予兆させる異状気象だったのかも知れません。
ちなみに藤原定家、このあと熊野詣での雲取越えで大雨に遭い、高熱のまま瀕死の状態で本宮に着いたようです。熊野詣では上皇にとっては巡礼と風流の楽しみなのですが、お付きの人たちは大変だったでしょう。特に秋口の御幸は霜が降りることもあり、何人かが凍死しています。
地球温暖化は暖かくなると思えば、冬は日本海の水蒸気が盛んに上がり、湿った空気を日本列島に吹き寄せます。そして、大雪。北極の寒冷渦が二つに分かれ、偏西風が紀伊半島近くまで南下しています。温暖化は冬に大雪などの異状気象を起こします。二酸化炭素を限りなく出している人間活動を止めない限り地球の熱暴走はそう遠くない時期にやって来るでしょう。少なくとも戦争を止めなければ、武力で領土を広げても熱暴走が起これば、水の惑星自体が熱地獄になることに気づいて欲しいです。