伊勢神宮内宮参拝のルートを国土地理院の地図にしてみました。こうして見ると内宮の殿地は五十鈴川右岸の河岸段丘にあることが分かります。五十鈴川は台風が来ると増水しておかげ横丁の下にある道路を冠水させることがあります。しかし、流域面積が狭いため暴れ川ではありません。昭和34年の紀伊半島を襲った伊勢湾台風は最大風速が75mでしたが、正宮付近は無風状態だったとか。
今年の冬は昨年からの少雨で宇治橋から300m程の所で川が干上がっています。川底を歩いて対岸まで行くことができて便利です。こんなことは初めてです。
昨年四月に次の式年遷宮の日取りが決められました。式年遷宮の「式年」とは定められた年を、「遷宮」とは宮を遷すことで20年に一度、東と西に並ぶ宮処を天照大神にお遷りいただく祭です。天武天皇の勅命により持統天皇4年(690年)から行われ、平成25年には62回目の遷宮が行われました。宇治橋もはや12年も経ち、自然になじんできたようです。なんと言っても参拝者の足跡で橋面もすり減るそうです。
式年遷宮は内宮外宮の正宮から14ある別宮を作り替えます。また、社だけでなく御神宝も新しくします。そのため、2025年の今年から次の遷宮がスタートし、2033年に第63回式年遷宮が行われます。20年に一度生まれ変わると言うことは、宮大工や御神宝の制作に携わる方の技術の伝承になります。これを「常若 とこわか」と呼んでいます。
そんな大造営は森林破壊だと見る方もいらっしゃいますが、御用材は将来的には神宮林でまかなえるように進められています。しかも、遷宮を終えた旧社で使われていた御用材は、各地の神社で再利用されます。東日本大震災で壊れた神社は神宮の御用材が下賜され新しく生まれ変わりました。究極のリサイクル、リユースなのでしょう。
さて、二時間で内宮を回るとしたら、どうしても行きたいところがあります。宇治橋はなんとなく通り過ぎてしまうのですが、冬になると鴨たちが五十鈴川で一生懸命餌を食べています。宇治橋の擬宝珠に手を当てて感慨げにしている参拝者。「なぜ人は伊勢を目指すのか?」ここで考えてみたくなります。ちなみに大鳥居からは冬至に朝日が真ん中に昇ります。だれがこんな趣向を凝らしたのでしょう。
宇治橋を渡ると右手に庭園が見えてきます。正月の参道は混雑。庭園の小径に入ると人は少なく、雑踏から逃れられます。この小径は木漏れ日の下を歩くことができて別世界です。こんな庭園があれば、入場料を払ってでも見る価値はあるのですが、千年を超える高さ20mの神宮杉に比べれば、内宮ではごく自然で、この庭園の素晴らしさは気づきにくいのでしよう。今朝も職人さんが手入れに念を入れていらっしゃいました。
庭園の小径からまた参道へ、手水場にはたくさんの参拝客。自分たちは五十鈴川に赴きます。「川に賽銭を投げないでください」の看板。川底にはいっぱいコインが煌めいています。メダカなのか小魚なのかいっぱいいます。少し離れたところには鴨がいます。神宮の森自体が大きな生態系で、多くの生き物を育みます。
玉砂利を踏む参詣者の声、そして足音。それを聞きながら風日祈宮(かぜのみのみや)へと向かいます。和語は日本古来の言葉で、その響きは安らかです。風の神様を祭ったこの社は鎌倉時代文永弘安の役のとき、神風が吹きました。福岡に襲来した蒙古軍は壊滅。台風一過の快晴の翌朝、博多湾は蒙古軍の亡骸が浮きました。人々は、懇ろに亡骸を回収して手厚く葬りました。今も世界で紛争があり、世の中が安かれと祈りたいものです。ユーラシア大陸から分かれて最も東にある日本列島。「あなたたちはなぜ倭の国に来たのか?」と問いかけたくなります。
千年を超える空を覆う神宮杉。やっと天照大神を祭る正宮につきました。石段が続いています。ここからは撮影禁止になります。何が祭られているのか。八咫鏡だと言われています。江戸時代、神官がご神体を見ました。人は「見たい 知りたい」という好奇心に駆られることがあります。神官は明かりを失ったと記録にあります。大きな鏡だったようです。この八咫鏡、百年ほど失われていたことがあります。天皇が神から授けられた三つの神宝。八咫鏡・草薙剣、勾玉、三種の神器の一つが失われると言うことは、天皇制自体が危ぶまれる事態でした。失われていた八咫鏡は五十鈴川の川面からお日様の光に照らされて輝いています。天照大神が天岩戸にお隠れになったように、五十鈴川に再びお出ましになった瞬間でした。光は必要な所に必要な時にこの世界を照らします。
そんなことを思い巡らしながら、正宮を後にして帰路につきました。右にあるのが古殿地。と言うよりも、2033年に遷宮が行われる新殿地です。自分のお気に入りはこの石段です。雨が降ると本当に美しい緑が蘇ります。こんな緑の石、どこから来たのでしょう。しかも端正に作られています。
このまま同じルートで帰るのもいいのですが、参詣者の多くは荒祭宮に向かいます。天照大神の荒ぶる魂を祭る宮。ご機嫌が悪いのでしょうか。正宮は鎮まった魂を祭り、ここは荒々しい魂を祭ります。パワーがみなぎった天照大神。一心に願いを祈ります。参拝者にどんな心の変化が起きるのでしょうか。それは人それぞれです。しかし、その心の変化が、また、世の中を渡っていくとき、次のパワーにつながるのでしょう。「live wellよく生きる」とはよく言った言葉です。自分の力を超えた方が背後にあるということは、心強いことなのでしよう。
二拍手をするとき、いい音が出ないことがあります。パンと上手く境内にこだます音を立てたいのですが、いつもそうなるとは限りません。そのわざとらしさが失敗を招きます。上手く響けばそれが木魂のようにあたりの空気感さえ変えてしまうことがあります。一羽の蝶の羽ばたきが嵐を呼ぶように、二拍手の空気の振動が世界に広がり、すべてが安らかな世の中になればと願うばかりです。
日本には古来から言霊(ことだま)思想があります。人が発する言葉には魂がこもっていてそれが良きにつけ悪しきにつけ、現実のものとなるという信仰です。いい言葉を発すれば、その人を生かします。良くない言葉を発すれば、人を傷つけることも。死に至らせることもあります。同じ使うなら、いい方に使いたいものです。世の中が安かれと、その言葉が多くなれば、争いや苦しみはなくなるでしょう。そう信じて、そう言い聞かせて社に膝築きたいものです。
正月にいた神馬の厩は今日は空っぽ。年末年始には白い馬がいるのですが、この馬を見ていると劣等感に陥ることがあります。馬の表情を見ていると非の打ち所のないお顔をしています。これが人ならどんな人格の持ち主なのだろう。どんな人徳が宿っていらっしゃるのだろう。いいのか悪いのか神馬はお留守だったので、通過して参集殿に向かいます。
ここでは日曜祭日に伊勢音頭などエンタが催されます。今日は何もなし。シャッターが降りています。江戸時代、お伊勢参りに来た人たちはこの伊勢音頭をまねて各地に持ち寄りました。東京音頭が伊勢音頭とよく似ているのは、当たり前。
参集殿で御朱印をいただく手続きをして、授与所へ。日本人は御朱印を集めるのが好きなようです。それとランク付けをするのも大好き。いつ順番が来るとも分からない行列に整然と並び、ひたすら自分の時が来るのを待ちます。その中に外国人も混じっています。なんと言っても達成感があるのと、開けばそのときの思い出が蘇ります。神宮の森には安らかさと清らかさに満ちています。
神道にはドグマがありません。異教徒なんて概念はありません。すべての物に神が宿っています。誰をも受け入れる神々です。境内の静謐、その深い静けさの中で神々は微笑みます。正月の神宮の森はそんな空気感に満たされた時間と空間が流れています。
いよいよ内宮参拝も終わり。でもここでもう一つ見たいのは宇治橋の橋桁です。美しい形をしています。構造上の機能美です。飾りもありません。整然と五十鈴川に凜と掛かっています。
すがすがしい気持ちで宇治橋を渡りました。大鳥居を超えるとお腹がすきました。おかげ横丁に入ります。手こね寿司と伊勢うどんをいただきました。とちらも美し国(うましくに)みえのグルメです。いたってシンプル、いたって素朴。三重の山の幸海の幸は食材自体が美味しいので、素材を邪魔しない限りは美味しいのはごく自然のことなのです。