人はなぜ熊野に向かうのか? 伊勢路ルートから本州最南端の和歌山県串本町にやってきました。ここには橋杭岩という不思議な岩があります。
弘法大師は一晩で紀伊大島まで橋を架けると鬼に言いました。鬼は橋を架けさせまいとして邪魔をします。弘法大師が本州から大島まで橋を架けようとしていると、鬼は鶏が鳴く真似をしました。弘法大師は夜が明けたと勘違いして橋を架けるのを止めてしまいました。今ではその橋桁だけが残っています。これが橋杭岩だというのです。
確かにこの奇岩、本州から紀伊大島まで一直線に並んでいます。とても自然にできたとは思えません。
実はこれ、太平洋プレートが本州に南東方向から押し寄せて、南東方向にできた弱い岩盤に玄武岩質の溶岩がせり出た物です。なので、どの岩も一直線に南東方向にできています。大小のこのような岩盤は志摩半島から串本に至る熊野灘にはどこにでもある地形です。
それにしても岩の手前にあるゴロゴロした固まりは津波でくだけた岩なのでしょう。東海地震、東南海地震、南海地震と三つの巨大地震が起こり、津波が橋杭岩を砕いた残骸です。これを見ると10mもするような津波が来たことが分かります。
今日はここまで、この日は橋杭岩が見えるホテルに泊まりました。夕食時にマグロの解体ショーをしてくれました。長くて大きな包丁で10分足らずでさばいていきます。その後は、宿泊客にふるまってくれました。マグロの食べ放題。何とも贅沢な話。
一夜明けて朝日が昇ってきます。漆黒だった夜はやがて灰色に変わり、薄いオレンジ色になります。昨日の橋杭岩の続きがシルエットになっていました。夜操業していた漁船が港に帰ってきます。それを追って海鳥たちが騒がしく鳴き立てます。
ホテルをチェックアウトして、紀伊大島に渡りました。今では立派な橋が架かっていてループを描きながら島に渡ることができます。樫野崎に来るとトルコの初代大統領の像が建っています。1890年、天皇陛下に謁見したトルコ軍艦が嵐の中、潮岬沖を航行していました。
船の心臓ボイラーが爆発し、梶を失ったトルコ軍艦は漂流を始めます。荒波にもまれもまれてこの海金剛と言われる岩礁に乗り上げてしまいました。樫野の村の人たちは、嵐の中を救助に向かい69名の乗組員を助けました。それでも犠牲者は580名。極貧の生活の中、人々は亡くなった人を手厚く葬りました。その様子は、映画「海難1890」に描かれています。
樫野崎にはイギリス人技師ブラントンが設計した日本最古の石造りの灯台があります。その灯台は今でも現役で岩礁の多い潮岬の安全を守っています。今は水仙の季節。岬にはいつも風が吹き抜けていきます。水仙は風に靡きスイセン独特の鼻につくような香りを漂わせます。
一人のトルコ人が話しかけてきました。トルコ絨毯をここで売っています。今は寒風が吹き抜ける岬。2年にわたる新型コロナウイルス蔓延の世界ではここを訪れる人もまばら。トルコの蒼いお守りは買っても、高価な絨毯が売れるのはめったにないでしょう。なのに今日も彼はここで商売をするのか。「今日はここは寒いです。北の方は雪が降っていますよね。お気をつけて・・・」優しい日本語が心に残りました。彼がここにいるのは、今から120年前に私たちの子孫がトルコの人たちにしたことを忘れないようにと、この街に住んでいるのかも知れません。
紀伊大島の樫野崎は、映画の聖地巡礼の地なのでしょうが、今を生きる私たち日本人が思い起こすべき真心や優しさの原点がここにあるような気がします。それは日本人の素朴な美しい伝統なのでしょう。だれに言われたのでもない、ただ同じ海に生きる人としてやるべきことをしただけ。そこにはトルコという異国の人というような分け隔てはありません。彼らの心はどこまでもボーダーレスです。そんな人たちが村を作れば、国を作れば平和は現実のものになるでしょうに。
聖地巡礼の後は、やはり美味しい物。樫野漁業直営の弁天前食堂で伊勢エビ丼をいただきました。大きな伊勢エビが一尾テンプラになっています。お味噌汁には小さな伊勢エビの半身が入っています。これで3500円。外国人のツアー客が後で入ってきました。日本食というとテンプラ。でもこの伊勢エビのテンプラは多分ここしかないでしょう。カメラを一メーター離しても伊勢エビ全体が画像に入らないような絵が撮れました。お味は写真がすべてを語っています。活け作りやクリーム煮など様々なレシピはあるでしょうが、やはり火を通した方が伊勢エビのうま味は最高。旅行クーポンをいただいたので、ここで6000円分を使い、現金を使ったのは千円でした。遠く旅をしてもここに来たら絶対入りたい食堂です。
一泊二日の旅を8分の動画にしました。