イエスは、弟子たちと食事をしている際、立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に纏、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い始めました。足を洗うのは家族で一番目下の者がすることです。カトリックでは洗足式として今でも行う所もあります。ヨハネによる福音書13章はこのように書いています。
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」 中略 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
これから最後の晩餐が始まるわけですが、有名なのはレオナルドダビンチの「最後の晩餐」です。ここではイエスがパンとワインを弟子達に与えます。パンはイエスの肉でワインは血を象徴しています。それを食べて飲んで神の子とされる。ユダヤ教にとっては考えられない教えでした。ユダヤ教では人間の血も含めて動物の血を飲むことは厳禁です。しかも、人間の肉を食べるなんて考えられないことです。イエスは十字架上で自分の肉を裂き血を流すことによって、私たち全人類の罪があがなわれることよって、罪が許されると言うのです。つまりイエスが十字架にかからない限り救い主にはなれません。そうなることは旧約聖書の時代から預言されていて、それは神の強い意志だと。
最後の晩餐を記念するために今でも教会ではパンとワインをいただいて聖餐式を執り行い所もあります。パンはイエスが十字架で裂かれた肉を、ワインは流された血を象徴しています。信徒は引き裂かれた肉を食べ流された血を飲む、これをパンとワインに変えて最後の晩餐以降その伝統は今でも引き継がれています。聖餐式は十字架で贖罪を思い起こす儀式なのです。
このあと、イエスはゲッセマネの園に行き、神に祈ります。「ゲッセマネの祈り」と言われています。イエスは心を神に注ぎ出すかのように祈り始めます。それは、人々の救いのため、世の悪から人々を守るための祈りでした。ヨハネによる福音書17章を見てみましょう。
イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」
この祈りは「主の祈り」とともにキリスト教ではどの宗派を問わず大切にされてきました。どんな意味や意義があるのかは、注解書や参考文献があるので調べてみてください。自分の心の想いを注ぎ出すかのような祈り。神道や仏教でも祈りはあります。中でもゲッセマネの祈りはこの上なく美しいものです。それは自分のためではなくすべての人々のために自分の命を差し出す祈りだからなのかも知れません。聖画にあるように弟子達は全員眠りこけています。このあとイエスは拘束、逮捕、裁判と矢継ぎ早にゴルゴダの道へと進みます。
福音書の記事を読んでいくとローマの権力が見え隠れします。その象徴はポンテオ・ピラトです。十字架の刑を執行できるのはピラトですが、実はユダヤ教の祭司長達が群衆を扇動してイエスを十字架刑にしようとしました。最後の最後までイエスには罪と言える証拠を見つけることはできません。祭司長達が自分の子孫までその責を負うと言い張ったのですから、最後の最後までイエスを釈放しようと努力したピラトも葛藤のただ中にありました。そして、群衆の声が勝ってしまいました。ユダヤ人の王だと言ったというのですから、ローマ総督である限りローマへの反逆の罪で断罪するしかありません。木曜日のピラトに視点を当てるだけで長編の劇詩が書けるかも知れません。いよいよイエスは髑髏と呼ばれるゴルゴタの丘へと。