今、伊勢物語が面白い! 業平、最後の一句から作者を読み解く | バイカルアザラシのnicoチャンネル

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 サイコロジストの日常と非日常を季節の移ろいを交えて描いています。バイカルアザラシのnicoちゃんの独り言です。聞き流してください。

 ちはやぶる 神代も聞かず 龍田河 からくれなゐに 水くくるとは

 遠い昔の神話の時代から聞いたことはない。竜田川の紅葉が水面に映って、絞り染めのような模様になるとは。

 この句は竜田川の現地で詠った設定になっています。
梅や桜はうら若い女性を比定することがあります。それに対して紅葉は年を重ねた方を比喩することがあります。もちろんその女性とは、出仕前に恋心をお互いに持っていた藤原高子です。高子は藤原氏の権門体制を守るために天皇家に嫁ぎ、陽成天皇を産みます。当時の女性として最高の位に就いた方です。それは藤原氏に生まれたという定めの中で、彼女なりに精一杯生きた証なのでしょう。
 それに対して業平は一時は刺客をたてられ東国まで逃避行をします。その後、宮仕えをして最後は蔵人まで昇進しています。お互いに生きる世界は違っても業平は歌の世界で名を馳せました。
 竜田川は紅葉の名所です。その川の水面に映る紅葉は有松絞のような紅のまだら模様になるなんて聞いたこともない。絞り染めは布に糸をくくりつけて染めると、まだらが浮かび上がります。
絞りの模様が織りなす紅葉は、業平の心象風景なのかも知れません。でも、そんな風景は神代から聞いたこともない。業平の心には、この世にはあり得ない美しい風景が作り上げられていたのかも知れません。その美しさは高子から来ているのです。この一首は、高子の美しさをたたえているとも言えます。15歳の業平が最初に抱いた恋心、それは終生変わることはありませんでした。人生に黄昏が来ても、何一つ変わらないで持ち続けた思いだったでしょう。
 さて、伊勢物語も終盤に来ました。124段、いよいよ物語もリーチです。

 
思ふこと いはでぞただに やみぬべき われとひとしき 人しなければ

 今、思っていることは言わないでおこう。私の同じ人はこの世にはいないのだから。

 
業平の心に秘められた想いとはどんなものだったのでしょうか。自分だけにしか分からない何か。それを理解することはできないし、分かってもらいたいとは思わない。ただ、秘めた想いがあることだけを伝えています。一言で言えば、沈黙です。病を得て死期を悟った業平の心の中、彼はそれを言葉にして自分一人で楽しんでいたのでしょう。もう語り尽くした。表現尽くした。後の残りの言葉は、自分だけで楽しみたい。そんな心境でしょうか。

 つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思はざりしを

 誰もがいつかは死にます。そんな道であることはかねてから聞いていたが、それが昨日か今日来るとは思っていなかった。

 人は生まれたらいつかは死ぬ。誰もが分かりきったことです。それが昨日か今日か。波瀾万丈を生きた業平。なんとその最後は達観した辞世の句でしょうか。
彼の心の中は静謐に満たされ、無の境地だったのかも知れません。空の空です。自分の最後はこれでよかったのだと。生まれが天皇の孫、親王になり天皇にもなり得た人物です。でも、時がそれを許しませんでした。権力から一歩離れて、和歌と恋愛の世界で終生過ごしました。宮仕えの蔵人として、歌人として、女性を好む色男として、彼のアイデンティティーは様々な側面を持っていたでしょうが、そのすべてを臨終において統合され、彼の地に旅立っていったことでしょう。それが、最後の一句の透徹した内容になっているのです。

 伊勢物語の最後の段で素朴な疑問が生まれてきます。
いったいこの物語を書いたのは誰なのか。作者不明。そんなはずはありません。業平を知る人を調べ上げていったら、かなりの人物に絞られるでしょう。斎宮で出仕していた伊勢と呼ばれる女官がいます。最後は業平の妻になったとも。それはそれとして、物語の題材が天皇家につながる内容のため、誰が書いたのかはあえて伏せられたのでしょう。今風に言えば、ゴーストライターのようなものです。誰が書いたか分からない。このこともまた面白いことです。

 

 それでも誰が書いたのか知りたくなるのが読者です。いったい誰なのか?フィクションを伴った作品を書くときある程度は事実を入れます。100%虚構でできているなんて作品はそう多くはないでしょう。大雑把に言って、8割は虚構で2割が事実に基づいているとか。業平が詠んだという最後の一首は、業平本人が詠んだのか、看取った人が詠んだのか。鍵になるフレーズは「きのうけふとは」の第四句です。亡くなるのが昨日だったのか、今日だったのか?もう自分は死んでいるのか、今日亡くなるのか、分からないというのです。薄れていく意識、混濁の中で時間の概念、昨日か今日かの境も分からなくなる。伊勢物語でなぜ、「今日か明日か」と表現しなかったのか。それは業平の臨終が差し迫っていると言うよりも、もう死に体であることを意味します。看取る者にとって愛する業平はもう死んでいる、あとは晦をするだけである。当時、遺族は一ヶ月家にこもって弔いをしました。今で言えば、通夜を一ヶ月間するようなものです。

 

 伊勢物語は在原業平という実在の人物をリアルに描くだけではなく、彼の存在・本質そのものを現実よりもさらにリアルに描くことでした。平安時代、多くの阿弥陀仏像が刻まれました。その多くは物語と同じように虚構や誇張が刻まれています。伊勢物語は言葉の一枚一葉を通してどの時代を超えても朽ちることのない理想の男性像を刻みだしたことにあるのでしょう。その偶像の系譜は源氏物語の光源氏に受け継がれ、徳兵衛など好色色男として今も息づいています。シュールなのにリアルよりも真実をついている。こんな矛盾したことをいとも簡単にやってのけたのが伊勢物語です。

 このように伊勢物語を読んでくると、古典文学の授業のようにやれ主題は何なのか、モチーフはどこにあるのか、時代背景はなんてくだらない詮索は辞めて、物語にどっぷりはまりたいものです。
耽読という言葉は今ではあまり使われませんが、物語に入り浸る。ときにはこんなことをしてもいいと思います。言葉の一葉一葉を丁寧に読み解いていく。これが一番ですね。

 

 

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