江戸時代の俳人松尾芭蕉は、奥の細道の五年前に吉野山に独り入っています。その様子は、「野ざらし紀行」にみえます。
独り吉野の奥に辿りけるに、まことに山深く、白雲峰に重なり、煙雨谷を埋んで、山賤の家処々に小さく、西に木を伐る音東に響き、院々の鐘の声は心の底にこたふ。
昔よりこの山に入りて世を忘れたる人の、多くは詩にのがれ、歌に隠る。いでや唐土の廬山といはむも、またむべならずや。ある坊に一夜を借りて
碪打て我に聞かせよや坊が妻
西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町計分け入るほど、柴人の通ふ道のみわづかに有りて、嶮しき谷を隔てたる、いとたふとし。彼のとくとくの清水は昔に変はらずと見えて、今もとくとくと雫落ちける。
露とくとく試みに浮世すすがばや
若しこれ扶桑に伯夷あらば、必ず口をすすがん。もし是許由告げば、耳を洗はむ。
独りで吉野の奥に道をたどっていくと、本当に山深く、白雲が峰に重なり、霧雨が谷を埋め、杣人の家が所々に小さく見え、西で木を伐る音が東に響き、院々で鳴らす鐘の音が心の底にしみじみと感じられる。
昔からこの山に入り、世俗を捨てた多くの人は詩を詠むのにひたり、歌を詠むために隠棲した。いやまさに、吉野を唐土(もろこし 中国)の廬山と呼ぶのも、またそのとおりではないか。ある宿坊に一夜を借りて
何とも静かな夜ではないか。砧を打つ音を聞かせてくれないか。宿坊の妻よ。
西行法師の草庵の跡は、奥の院から右の方に二町ばかり分け入ったところに、柴刈りの人が通る踏み跡がわずかに残っている。険しい谷を隔てている峰々は大変厳かである。かのとくとくの清水は、昔と変わらず、今もとくとくと雫が落ちている。
とくとくの泉が雫を落としている。試しにこの清水で浮世のけがれをすすいでみよう。
もし日本に二人がいたら心を清めるために、伯夷は口をすすいだろうし、許由に伝えたら耳を洗っただろうに。
下手な現代語訳をしてみましたが、こんな感じでしょう。芭蕉は古くからの詩人達が世俗を離れ隠棲したり、旅に出るのを憧れていました。特に吉野山に草庵を営み隠棲した西行法師への思慕はかなりのものでした。
自分も一度、西行法師の庵を訪れたことがありました。今でも本当にポツンと一軒家です。しかも、2月の大寒の時期だったため水という水は枝の先まで凍りついていました。音を立てる物は、ここに出てくるとくとくの滴だけでした。芭蕉にとってはここは聖地にようなものに映ったことでしょう。奥の細道の五年前と二年前に吉野山を訪れていますから、何らかのインスピレーションが芭蕉を陸奥の旅に誘ったのでしょう。ここまで来ると山も深いのですが、ディープな吉野山の探訪になります。秋の吉野山は芭蕉の面影が見え隠れする季節です。