気温が下がると思い出すことがある!!! | バイカルアザラシのnicoチャンネル

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 サイコロジストの日常と非日常を季節の移ろいを交えて描いています。バイカルアザラシのnicoちゃんの独り言です。聞き流してください。

 11月は霜月、朝晩は冷えます。スキー馬鹿になる前は、冬山馬鹿をしていました。よく登ったのは、大峰山。「山眠り、山凍る冬」。春、里にいた山の神は、冬になると山に帰ります。神が住む山に人は入りません。修験の行者達も夏の修行は終わり、奥駈道も獣道になります。冬の釈迦ヶ岳は積雪になると夏の美しい山容は変わり、牙をむきだして山に入る者を拒みます。前鬼にある七ツ釜滝も一部が凍りついています。

 

 しかも、山頂にテント泊をするというのがこだわり。気温はマイナス10℃。1度目は深仙の宿でテントを張りました。オリオン座がこぼれるように瞬きます。明日は山頂まで楽勝。天気図を見ると西から二つ玉低気圧が来ています。明日は雨か。夜半からテントにパラパラと音がします。2時間後には50cmの積雪になりました。朝起きれば、胸まで積雪。1m先は見えません。ホワイトアウトです。1mも見えないと左右の感覚だけでなく上下感覚もなくなります。ほうほうの体で退却してきました。

 

 2度目は積雪1m。ラッセルをして稜線に出るも力尽きて両童子岩で不時露営。なかなか登らせてくれません。冬でなければ山深いと言っても山頂までは日帰り登山が出来ます。しかし、冬はまったく山の顔が違います。山の神の住む聖なる冬山になぜ入ろうとするのか。山はここへ来るなと拒み続けました。

 

 やっと登らせてもらったのは3度目でした。紀伊半島の最高峰八経ヶ岳弥山が見渡せます。大峰奥駈道も細々と見えます。山頂にテントを張り、高ぶった心を戒めて眠りました。夜、目を覚ましました。なにやらテントの外で大型動物の気配がします。鹿でも来たのかとうとうとして眠りにつきました。朝、起きてみると隣の木にクマの大きな爪痕が残っていました。足跡もテントの5m先に続いています。後で身が凍りました。あのときテントの外に出ていたら、クマがテントを襲ってきたら・・・。恐ろしさに体が震えてきます。

 

 恐ろしい夜は過ぎ去り、テントウォールが明るくなってきます。山頂の薄明は美しい。360度のパノラマは、すべてが雲海で囲まれていました。釈迦ヶ岳だけが雲の海に突き出て、他の大峰の山々は薄らベールに包まれています。中には雲海が稜線を越えて流れているのが見えます。

 

 空が紅く染まりました。東の空からご来光です。雲海の上に出てきます。出ると同時にすべての物が紅に染められました。海が黄金色に染まっています。紀伊半島の最奥の嶺々から海が見える。不思議な光景です。

 

 山頂にいらっしゃる釈迦如来も例外ではありません。朝日に染められ神々しいお姿に変わります。下山する途中に深仙の宿で一休みしました。近くに都津門という奇岩の門があります。極楽の入り口だと言われています。以前はここを抜ける修行がありましたが、岩が死んで危険なため今は行われていません。ここに霧が発生して朝日が差しました。まさしく極楽の入り口のような風景になりました。

 

 帰ってきて思ったこと。身が軽くなって自分の体のような感じがしません。「大峰には死んで入る。」と言います。もし山から帰れたら、それは生まれ変わったのだと。清々しい境地になりました。この二日間はやはり山の神が住む聖なる山に入っていたのだと。そして、安易に冬の釈迦ヶ岳に泊まるものではないと。その後も冬の釈迦ヶ岳に入りましたが、山頂を踏んだのはこのときだけでした。

 

 大峰山の冬の山頂は氷点下になります。水はシュラフの中に包んでおきます。テント内で水をこぼすと一瞬にして丸い氷の粒になります。それでもシュラフに潜れば天国です。冬の大峰山でテントウォールの外は死の世界です。厚さ0.5mmにも満たないゴアテックスのパラシュート生地が生と死を隔てているのです。人はなぜ遭難するのでしょうか。ホワイトアウトになった夜、考えたことがあります。そうだ、シュラフの中にいれば安全だ。人は目的があるから行動する。行動するから遭難する。鹿や熊は雪が降れば止むまでそこで停滞する。行動しなければそこが安全地帯なのだ。変な言い聞かせをして下山したのが正解でした。冬山登山は計画や想定しないことがいっぱい起こります。そのときどう対応するか、その判断が生死を分けるのだと思いました。一番いいのは、こんなことはしないで冬はこたつで蜜柑を食べてるのが一番です。それでも体がうずく人はスキーかスノボをするとか。

 

 麓に下りてくると清々しい境地、大峰から死んで新しく生まれた喜びは少し薄らいで、温泉に入りました。凍えた足が温かくなります。温泉の成分が冷えた骨の芯まで染み渡ってきます。と同時にお腹が空いてきました。死んだように休憩室で眠ると顔を見合わせたように近くの食堂へ。大盛りのカツ丼とカレーうどんをいただきました。山に入っているときだけが清らかなのか。下界に下りれば餓鬼に元通り。やっぱり冬山馬鹿だと気づきました。

 

 

 冬の大峰山の釈迦ヶ岳に登頂したときの動画です。

 

 

 冬の遭難というと明治期にあったこの事件です。高倉健主演の「八甲田山」、これは新田次郎が書いた「八甲田山 死の彷徨」を原作とした映画です。明治時代、ロシアが極東に進出していた頃、北海道や東北は次の脅威になっていました。そこで、極寒地での軍事訓練の一環として八甲田山で雪中行軍をすることになりました。青森第5連隊は十分な準備と経験をしないで、頼んでおいた地元案内人を辞めさせ山に入ります。吹雪でホワイトアウトした連隊は、リングワンデルングをして白い地獄に次々に倒れます。リングワンデルングとは、視界が利かなくなったとき右利きの人は右足を出す歩幅が大きくなるため、まっすぐ歩いていると思っていても左寄りに歩いてしまう傾向があります。これが起こると人は方向を見失い同じ円弧をさまようことになります。一方、弘前第31連隊は地元出身者で自分の意思で陸軍に入隊を志願した者で固め、危険箇所では案内人を立て、雪中行軍を重ね少数精鋭で行軍を踏破しました。

 

 組織が大きくなると統率が難しく、指揮系統が混乱することがあります。それに対し、組織が小さいと的確な判断で小回りが利きます。映画では組織のリーダーがどんな状況にそのときどんな決断を下すか、それが組織の生死を分けました。この映画はドキュメンタリータッチの映画として制作されましたが、ビジネスモデルとして企業の研修に大いに使われました。会社の組織はいかにあるべきか、経営や管理をどう行うか。データ収集や調査からどのように的確な判断を下すか。リーダーシップとメンバーシップのつなぎ方など。そして、この映画によって日本のビジネスモデルが小回りの利く少数団の組織に組み替えられて行きました。意図しない反響に一番驚いたのは、監督だったと言います。

 

 それにしても徳島大尉高倉健神田大尉北王子欣也の演技は見物です。三國連太郎はだらしない大隊長を演じ、行軍の責任を取って自らピストルで自害します。ちなみにこの作品はノンフィクションのように扱われることがありますが、新田次郎の解釈や脚色がつけられており、あくまでも虚構の部分が多いと考えられます。この作品は日本を取り巻くロシアやヨーロッパ列強に対峙するための時代精神が色濃く反映しています。その狭間で兵士達がどのように考え、行動したか、その生き様をリアルに描きました。フィクションが多いからこそ、この作品はいつまても朽ちない新しさと緊張感を見る者に与えてくれます。またまた、勝手にシネマ解説してみました。

 

 現在の八甲田山は、ロープウェイが通じ冬はマウンテンスキーやバックカントリスキーのメッカになっています。映画で徳島大尉が、「知れば知るほど恐ろしい山です。冬の八甲田は百年経っても人を寄せ付けないでしょう。」と報告するシーンがあります。そのように冬の八甲田山に二つ玉低気圧や三つ玉低気圧が通過すれば、あの遭難事件と同じような天候になるのは今も昔も変わりません。多くのスキーヤーやボーダーが雪崩に巻き込まれました。それでも冬の山に入りたくなるのは、なぜなのか? 冬山クライマーの悲しい習性と言うしかありません。自分の身を自ら危険の極みにさらして、生と死の細糸の上を歩く。八甲田山の遭難は、国家や時代が否応なしに連隊にそれを求めたと言うことです。個人の意思で参加したわけではありません。クライマーは自分の意思でやっていることです。ここに決定的な違いがあるのでしょう。それはそれとして、映画のシーンの一コマで風雪の音を聞くと、それと同じ風雪の音が聞こえてきます。深仙の宿は釈迦ヶ岳と大日岳のコル(鞍部 山のピークとピークが鋭く切れている谷間)で風が吹き絞られて強風になります。これを聞いたとき、温かいシュラフの中でぬくぬくとした心地よさが今かのようによみがえってきます。

 

八甲田山バックカントリスキーの空撮です。快晴の八甲田は釈迦ヶ岳のように海まで見えます。一度天候が悪化すれば・・・。