610日の夜に東京を出発して土曜・日曜と東北を訪ねました。


寒い時期からほとんど毎週のように被災地へボランティアに行っている

大学時代の友人ケイコとご主人のアツシさん、ご友人のミエダさんに

便乗させてもらうかたちで。

これから書くことはそのときの話だが、できるだけありのままを、

飾りもやらせもなく事実をお伝えできたらと思う。

もちろん、現地に滞在したのは短い期間であり関わった人たちの数も少ない。

それでも書くことはたくさんある。

尚、個々人の名前については一部仮名を使わせていただくことにする。


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610日の22時すぎ、東北へ向けて東京を出発。

紺のハイエースに4人。後部座席の後ろには友人夫婦が集めてきた

二層式の洗濯機2台を含む支援物資、メイド・イン・チャイナの大きな

自家発電機、角スコップ、バケツが5つ、テント、4人分の寝袋と長靴

などなどが山積みになっていた。友人夫婦は何度もボランティアに

行っているので自前の道具がたくさん積まれている。
アツシさんはむかし山形の大学に通っており、
312日に夫婦で

気仙沼に旅行を予定していたそうだ。


先ずは南三陸町と気仙沼のあいだにある支援物資の届け先へと向かう。

南三陸町へと近づくにつれて道路はガタガタになり、

車は大きく上下に揺れ、後ろでは洗濯機が僅かに飛び上っては落ちる音がする。


石巻にある追分温泉を抜けて南三陸町へ入ると、

惨状が目に入ってくる。瓦礫の撤去は手をつけられて

いないのではないか?と見紛うような光景である。




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ガソリンスタンドの前に立てかけられた看板には

「津波のバカ!でもがんばっぺ!」と書かれていた。

この二言の裏にはどれほどの想いがあるのだろうか。


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早朝5時半頃、雨の中支援物資の届け先に到着。

物資を置いたあとに避難されている方々とプレハブのような建物の中で

しばし雑談。60代だろうか、70代だろうか、おじさんが2人。

2人の顔に悲壮感はない。1人のおじさんはじっとTVを見つめ、

たまに思い出したように私たちの方に目をやる。

もう1人のおじさんは終始にこやかにスキージャンプの舟木が来た、

あのサインは誰だか分かるか?石野眞子だと話してくれた。



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奥にはTVが一台、壁には各地から寄せられた

応援メッセージや現地の方の声が書かれた紙などがベタベタと貼られていて、

その中には小学1年生が書いたと思われる原稿用紙も画鋲で

打ちつけられていた。ボロボロになっていようとも、

これはこの子が生きた(生きている、であってほしい)証である。



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陸前高田に向けて北上する途中、今回が初めての訪問となる私にご配慮いただき

気仙沼の市街地を見に立ち寄る。こちらも酷い。

もともとは民家があったであろう道路脇に船がある。

その写真を東京に帰って友人に見せたところ、

友人は「正直に言うとあまりにも非現実的すぎて現実味が湧かない」と

ぽつりと言った。もっともなことだと思った。私自身、実際にその場に

行ってもうまく事態が呑み込めなかった。

目の前に広がっていたのはそれだけ非現実的な光景だった。


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