聖徳太子が、
篤く三宝を敬えと言ったのが、
はじまりかどうかわからないが、
現代において仏教を勉強するに当たっては、
三宝でなく一宝でいいような気がします。
三宝は仏法僧で、仏はブッダ、法はダルマ、僧は教団
この三宝は厳密には、ブッダが生きていたころの仏法僧であり、
そういう意味では、篤く三宝に帰依することは正しい
ことなのだろうと思う。
しかし、私のように仏教を純粋に学びたいと思っている人間は、、、、
ネットでの様々な情報や、
寺で真のブッダの教えが説かれていない現状から考えて、
どこかの宗教団体もしくはお寺の檀家となる場合は、
信じるブッダは不在、教団そのものを信じることはできない
ということを前提に醒めた目で<法>だけを信じるのがまっとうであって、
常に、お釈迦様はどういう教えを説かれたのか?
というところに的を絞って学ぶべきではないかと思うのです。
原始仏典をたどって分かることは、
仏陀はだれにも増して謙虚な人であり、
衣食にはこだわらない人であった。
そうしたブッダの人柄から経典の中身を解釈してゆくことが必要では?
したがって、高森氏や長南氏のような
その人を信じ、その人を頼る気持ちで
仏教を学んではならないと思う。
自らの頭と心で考えて、
ブッダが相手により異なる説法の仕方をしたのは
単に相手のレベルに合わせたのではなく、
それぞれの人間に適した仏教があると思われたからだと思う。
長南氏の講座がしばらく続くが、
これは、親鸞の教えを高森氏が解釈した教えであり、
ブッダの教えそのものかどうかはわからない
という立場で理解すべきものであろう。
ということで、
私は、どこの宗教団体にも所属しないことにする。
しなくても、生きる意味は分かってきたような気がする。
生きる意味は、講義を受けて分かるものではなく、
実践して初めて分かるものだと思う。
ネットの数々の情報から判断して、
高森顕徹氏は、「生きる意味が分かっていないだろう」と確信する。
長南氏もそうかもしれないが、そうでもよい、
様々な経典からの言葉の意味は深く、
言葉の意味は聞く側によって異なってくるので、
生きる意味がわかっていない人からでも
生きる意味を学ぶことはできる!
「愚者は賢者からも学ばないが、賢者は愚者からも学ぶ」
からである。