『大日本國細圖抄』 | だるま親雲上日日記

『大日本國細圖抄』

 江戸時代の3つ目は、1865(慶応元)年に刊行された『大日本國細圖抄』です。あっさりした感じですが、かえってそのことが時代の背景を現しているように思えます。

い

 「前書」その1です。

ろ

 「前書」その2です。

は

 「後書」は、こんな感じです。

に
 地図とは別に石高なども記されています。因幡には8016丁の田があり、知行高は13万1649石と記されています。
 また、因幡国には、もとは8郡がありましたが、巨濃郡が省かれて八東郡と岩井郡に加えたとあります。


 「慶応」といえば、いよいよ江戸時代の終焉を迎える最期の元号ですね。ここで注目したいのは、やはり「浦富台場」が設けられたことでしょう。『新編岩美町誌』上巻879頁からそのことが記されています。
 1853(嘉永6)年、ペリーが来航し、鵜殿氏も「玉筒」を備えます。1867(安政4)年、下田条約が調印された年には岩美郡内の力士たちが「力者隊」を組織して、海岸防衛に備えようと名簿がつくられました。
 1858(安政5)年、日米修好通商条約締結の年、海岸から1里以内の男子と牛馬の員数調査があり、岩美では岩常・宇治ラインを境界とする18ヶ村、福部地区の9ヶ村が対象となりました。
 また、守備地区の割り当てが行われました。
 ・陸上~小羽尾~大羽尾 円山勘解由
 ・牧谷~浦富 鵜殿藤次郎
 ・田後 鵜殿直次郎
 ・網代~大谷 山岡上野
 1863(文久3)年、長州藩が下関海峡を通航する米国船に砲撃を加えた年には、台場が浦富につくられます。現在は、約100mの土塁が残されています。
 1988(昭和63)年、「鳥取藩台場跡」(全部で6箇所あります)として国の史跡指定を受けています。


 グーグルアースから見た現在の浦富台場跡(五角形印の所)です。