木を見て森見て森見て木を見て | Prose 

木を見て森見て森見て木を見て

海老の背中は美しい。


あはは。。


変なことを言う、そうお思いですか?(笑)
たしかに、あまり大きな声で言うと
変人扱い、あるいは 何フェチ?とでも言われそうだ。


しかし、

水の中、泳ぐためにであろう抵抗少なな背のR具合、
外敵への威圧か、はたまた防御の鎧か、あのトゲトゲ。


ぃや、まてよ、海老の話しじゃないんだ。ちがうちがう。。w


つまり、「美しい形」あるいは「型」とは、
自然発生で現れる<属分け的>な
合理に基づいたものと言える。


その「属」の分け方、範囲の淘汰、排除の方法を
度々、我々 人間は、教育に政治などなどに誤って
見えない誰かたちの不確かな「普通」を、
その都度作り上げ、それを指標にして
秩序を保とうと歴史を繰り返してきた。


それら多くの価値観は、振り子の重りのように、
時代時代によって反対反対へと振れるのは、
或る意味バランスを取ろうとする
健全な(正しいという意味でなく、あくまでも健全)証しで、
開き直って成長を諦める行為への抗(あらが)いとして、
あってこそ然るべきだなと思う。


お茶だお花だと言えば、
あれ決りこれ決りと、
そんなにあれこれ決りごとで縛られてたら
お茶なんぞ美味いと思えねぇよとか、
花なんぞ 自然に咲いてるからいいんであって、
いじくり倒してあれこれするもんじゃねぇよ。

なんてことも時として耳にする。


確かに、形式、型、作法..etc 
それが発達したかと言えば、
すべからく、自分以外の誰か、
そう、他人との付き合い、
感動共有の方法として、
他、不快を与えないがためなど、
コミュニケーションの円滑化のための
お約束ごととして本来発展したものと言える。


無駄をそぎ、形が互いに身に着いたとき、
その時こそ、余計な(無益な?)言葉の応酬や
要らぬ(必要以上の)気づかい(気苦労とも)が
省かれ、"さらりと水の如き″人の交わりが
実現する・・・・・・・・・・らしい(笑)。


決められた動き、守るべき要点、
それらが海老の背のように
時の積もりに磨かれて
動作となったとき、「ぁぁ、美しいなぁ」と感じさせ、
やはり、いいものは美しいに繋がり、
それは身体を動かすスポーツなどでも やはり
「上手い人は美しい。」と感銘するように感じる。


それに憧れ、そこをお手本とし、
あれこれと模倣し、 翌檜(あすなろ)は
本物の檜(ひのき)にならんと夢見る。

(そら、俺か、あはは ま、
実際には、檜は檜、翌檜は翌檜なんだとか
それを言っちゃぁおしめぇよ。w)


しかし、


いつも思うのは、どのスポーツの
どの動作、フォームでも注意すべきことがある。


それは、その一連の動きの中、
その目的が 時を止めた瞬間に
(写真など切り取られた場面)
たとえ、それが美しい動き、合理的な動作の中の
実際のワンシーンであっても、
静止画として目に留めた瞬間に
残念ながら別物になる。


前後のシーンとのその間(ま)というか、
繋がり、動き、流れ等々が一連として大切であり、

フォーム反対派や型無視派は、そこを
感覚的に解っていて(感じていて)
これまた振り子が振れるが如く
=要らないもの‥と主張する者が後を絶たない。


まぁ、それはそれとして、感覚、感受の世界は広い。あまりにも。


芸術家で古きをぶち壊すのが一つのテーマである
運命の者は除いて、人(属)が作ったルール、協議という中にあって、
その道を極めようと思えば、世の習いとして、どの世界でも
結局、温故知新。いずれ旧(ふる)きを尋ねるに至るようだ。


↓にフリー素材からお借りしてきた画像がある。
海老の背中画像も載せたいが、そこは我慢して(笑)
ご覧の通り、青空に萌える緑、応援の声も届いてきそうな
運動会であろう微笑ましい写真だ。


Prose -運動会

いま、まさに「ヨーイ‥ドォン!!」
号砲、火薬の匂いとともに、
一斉に少年たちが駆けださんとしているシーン。
なっつかっしぃなぁ。 お祭りごと少年でしたからねぇ。(笑)


これはこのまま、微笑ましい写真として
ほっこりした気持ちだけですますのがいい。たしかに。


ん~、しかし、ちょぃと失礼。 ここからが、お題。


6人の少年が、我こそは走りださんとするために
構えた「形」、<走法>という「型」など、
まだそのようなことなど、つゆも知らぬ子たちは、
まさしく、先生だか親御さんだかに、教えられた
早く走りだすための「形」を表現している。

しかし、6人それぞれが腰を落とすという共通項を除いては、
見方によって随分違う。


これを、、体つきも違うのだからと考え、
それぞれの個性だから。


あなたは、そう言うだろうか?
人という二足歩行、両手両腕がほぼ
同じ位置から同じようについているという意味で<属>。


犬や猫、馬など四足走行の獲物を狙う時のスタート姿。


<属>が違えば形が違ってもと頭は納得し
受け入れられるものを、同じ人間がこうも違うと
それを「個性」と心のストレスを整理する。


ほんとにそうだろうか?

ダーツのスタンスは、なんのためだろう?
その目的は? 激しい横風に堪えるため?
電車の旧停車に堪えるため?そういった
何か外部からの圧力に耐えるという目的のため?


例えば右利きの人が右手で投げる場合
右脚が前に出るのは何のため?ボードに近づくから?


それは、たしかに合理的だ。即、納得と云うものだ。


たしかに先にも書いたように、
上手い人は、なぜか美しい。


とくに動いているときは、印象としては残るが
細かなバランス、角度は掴めない。
どうしてもセットアップやフィニッシュなど
静止した映像や場面が残りやすく、
スタンスなどにしても、美しく、綺麗に、
あるいは、好きなプレイヤーの立ち姿など
機能、流れの中の一場面としてでなく、
あくまでも角度、形の うつし絵になってしまいがちだ。


素早く走りだそうとして腰が落ち、
素早く体重を移動するために足を交互に置き、
後ろ足で蹴る力を増すために上体を下半身と
逆に捩じる力を利用せんがために歩行と違う
同側の手足を前に出しておくことが<型>の
通説となっているのだろうが、気を付けるべきは、
その蹴り足に 個々の利き足が存在するということ。


まさしく、「形」(属)の中にこそある「個性」の分別だ。


スタンス、上体の在り方は、
美しい立ち姿ではないことは明らかだし、
上手い人がその「形」だから、
その留まった「静止画」を真似ても
本来の目的は果たし得ない。


あなたなら、この画像の少年たちのスタートの「形」を
どう受け取るだろうか?


そんなに腰を落として伸びあがる動作に重力が負荷を与え、
飛びだせないであろう子もいれば、大きく重い腕を拡げ
その重さを振るのに負荷が大きいだろうという子もいる。


蹴り足が伸びきっていて、号砲とともに
ダッシュできないだろうなぁという子もいる。


小学生がタイムレースではないのだから、これはこれでいい。


フォームには、目的があって、それを理解してこそ
「形」が活きる。「形」が美しくなる。


ダーツのスタンスも上体も、
目的はコントロールを維持しつつ「投げること」が目的ならば
べた足であろうと、前傾であろうと
その目的、投げ始めるその動きの途中の
一つの瞬間映像であるべきだと思う。


しっくりくるためにロックするというのは、
大砲をドカンと撃って、その反動で大砲が後方に動いてしまうのを
防ぐためや、照準をピタリと合せてズレないためと考えれば
動くための静止であって、動かないための静止じゃないと云う事になる。


つまり、それは許容範囲という形でそれは判断することができる。


肘は動かさない方がいいという言葉が
額面として、静止画として捉えられ、
何がなんでも動かさないために
肩や二の腕に力を入れるとなると
これまた本末転倒ということになる。


よく、前傾をすごーく強めて
近い方が有利という実に真理な現実を叶えるべく、
フラミンゴの如く軸足プルプルしそうなほど
上半身が真横になってるんじゃね?というのを
見かけます。 


若いっていいなぁーといつも思うんですけどね。

こういったシーンを見るにつけ、
投げる‥それもコントロールし、
しかも3本同じ態勢で投げなきゃならん
という目的という観点よりも、
「近い方が有利」を優先している結果だなぁと思うんです。
(意識か無意識かは知らんが。)

ほぼ地面と平行?と感じるほど
真横になる上体を維持するために
どれだけの背筋やら三角筋やら
プルプルと酷使するのだろう?!。


そのうちの幾つかの筋肉は、
「投げる」という直接的な
筋肉と連動していると云うのに。


若いっていいなぁー(重要なので2度云うw


たしかに近づきたいけどね。
身長、ものすごい高い人が、
上腕持ち上げてボード側に傾くと
たしかにずるぃと思ってみたくもなるけれど(笑
ま、それはそれ、そんな自分も愛さなきゃ(笑
どっかで聴いたフレーズだw。


ま、そんな風なのを念頭において
アッチコッチウロウロ立つわけですよ。