昨日のフリートウッド・マックに続いて連投。
先日アップしたサンタナを私は「ラテンアメリカ音楽のとっかかり/入り口」と称した。グロリア・エステファンや、遡ればセルジオ・メンデスもかくの如し。
マイルス・デイヴィス的にはムトゥーメ、アイアート・モレラやフローラ・プリム。ウェザーリポートならマノロ・バドリーニャ&アレックス・アクーニャの打楽器隊も然り。
で、サンタナの次はグロリア・エステファンを貼ろうと思っていたが、「徐々に」はやめて、いきなりモノホン(?)に突入いたします。
コロンビアのカルロス・ヴィヴェス。学年はオレと一緒。

彼を知ったのは14-5年前、世界平和を企む例の秘密結社Playing for Changeで。← 最後に貼ります
かのNPR/Tiny Desk Concertで紹介されているとおり、氏はバジェナートとロックンロールの融合。バジェナートとはつまりトロバドゥール、吟遊詩人に近く、村から村へ渡り歩く牛飼いあるいは羊飼い、ラクダに乗った隊商でもいいのだが、往古情報伝達の重要な役だった。
伝承や時事を語る。日本なら琵琶法師に当たるだろうか。おフランスだとランボオみたいな人スかね。
要は「語り部」である。
ラテンアメリカは「物語」の伝統が深く、ガルシア・マルケスの有名な『百年の孤独』、バルガス・リョサなら『緑の家』がそれそのもの。ボルヘスもまぁそうだが、この「物語」で以てノーベル文学賞をとったといっても過言ではない。人口に膾炙するマジック・レアリスモは特徴的ではあるが、本質はむしろ「物語」じゃないだろうか。
愛と平和とラブ&ピース。まぁ同じ意味なわけだが、加えて人生の苦悩や何かを表す文学が日本や米国、欧州では多数派だ。ところがラテンアメリカでは「世界」つまり、あるひとつの土地 ー 実際の場所でも仮構でも ー に根ざしたワールドが描かれる。『百年の孤独』なら南米奥地のマコンドという村におけるブエンディーア一族の百年の歴史だし、キューバの作家アレホ・カルペンティエールの『この世の王国』はある奴隷の視点で、ハイチの実際の歴史を綴った魔術的リアリズムの習作だ。
※ コックから大統領になったトゥーサン・ルヴェルチュールら黒人が、ナポレオンの軍隊に(日露戦争より100年も前に)勝ったことも『この世の王国』で知った。
一読して愕然、その衝撃は初めて仙台で牛タン食った時の上を行く。自分の視界はこれらの文学で著しく広がったが、いずれもその叙述法は「物語」である。
(これは宗主国スペインの『ラサレーリョ・デ・トルメスの生涯』ー 放浪する、いち少年のピカレスク・ロマン ー、 なんならセルバンテス『ドン・キホーテ』等〝語りの手法〝がラテンアメリカに伝わったのかもしれない)
◆バジェナートを展開するカルロス・ヴィヴェス(2024年)
これはいったい何を言ってるのかというと、「ガボ(ガルシア・マルケスのこと)は故郷を顧みず、高級車で帰省してもたった2時間で帰っちゃった」「ノーベル文学賞をとったのはベネズエラで、死んだのはメキシコ。成功したのに金もよこさず、奴は故国に何ら貢献していない」「あいつはカリ・カルテル(南米3大麻薬カルテルの1つ)とカストロの橋渡しまでしたクソ野郎」てな意味。自国コロンビアの英雄をめっちゃディスっている。
面白いのは、あくまで陽気に揶揄している点。そして、このバジェナートに若いおねーちゃんたちがウケている点だ。到底日本じゃあり得ない。
そして語りは「音」にも如実。ガイタGaitaと呼ばれる縦笛(※)の使い手マイテ・モンテーロ女史を常に起用し伝統的な楽器を用いるのと同時に、エレクトリックの重低音(このアルゼンチン人のベーシスト!)で語りに深みを与えている。バジェナートとロックンロールの融合が、ヴィヴェスの新しい点。
※ 侵略しにきたスペイン人がGaitaを初めて聴いたとき、バグパイプを想起したとか。
※ ブルガリアにもガイダという縦笛があり、バルカン半島のバグパイプとされている。似たような例では打楽器だがイタリアのタンブレッロ、インドのタブラ(タンブーラ)、ドミニカのタンボラ、コロンビアではタンボールなど。人の移動によって伝播するのですね、楽器も音も。
では音。Tiny Desk Concertには2種類あって、メインはワシントンD.C.での本編。もうひとつは当該のミュージシャンが自宅で演奏するTiny Desk Home Concert。
今日は後者。4曲で21分、Yes『錯乱の扉』より短いし、とにかくめちゃカッコいいから聴いてみそ?
◆Carlos Vives ー Tiny Desk Home Concert(2020年)
過日紹介したクランベリーズみたいに1曲ごとの切り取り動画がないから、全編上げました。グルーヴと静謐の対比、「語り」。
俺は3曲目のBicicleta(自転車)という曲が、特に好きです。
ついでに、今年9月にやったD.Cでの本編を直貼りしときます。
「みなさん、サバンナの新しい魅力を伝えに今日は来ました。これらは時代を先取りしており、戴冠した女神がいます
人生は順調に進んでおり、魔除けの女神の王冠を待っています
私は次のことを伝えるためにここに来ました
私は愛する王たちと神々を知っています
そしてあの女神の名は、高貴な人々に由来します
女神は高位であり、同じ動きをし、同じ考えを持ち、サバンナで喜びに歌い、〝かわいそうなレアンドロ・ディアス、彼は山の上で悲しんでいる〝と歌います」
ー ディオサ・コロナーダ(冠を戴いた女神)ー
ハッピーに、不幸な人を歌うという(笑)
寓話もまた物語の伝統であるが、これも今の日本にはなかなか無い。「自分を信じよう、わたしがんばれ」とか、悲しいなら悲しいと直截に。〝仮託する〝ということが無い。
異なる点はほかにもあって、それは、ラテンアメリカの人々は国が違っても互いに「兄弟」と呼び合うこと。カルロス・ヴィヴェスだけじゃなく、グロリア・エステファンでもペルーが舞台の曲をやった折「フォークランド紛争のとき、ペルーの兄弟たちが援助してくれたのを決して忘れません」、そうアルゼンチンの人が。
同じスペイン語ということはあろうが、例えば日本人が中国や韓国の人に対して「東アジアの兄弟」と呼ぶなど、まあ無い。「あいつらは!」とディスるのがせいぜいだ。
西欧列強に迫害されたという共通の歴史だけで、この紐帯は測れるものだろうか。
※ 同じく支配された、例えば東南アジアでは、果たしてどうなのだろうか。
かくして音楽は、いろんなことを学びあるいは考えさせてくれる。逆に言えば、宝塚歌劇なら〝キキちゃん、キャ〜素敵❤️〝だけでは、何も観たことにならないのである。
さてTwitterで「音楽は国境を越える、というのは本当か」と疑義を呈した人があった。氏がおっしゃるには「西洋音楽、その音階の一定の学校教育があるからこそ、人はロックンロールを楽しむことができるのだ」。
うむ、然り。幼児はロックを解さぬし、俺が平安時代に生まれていたら、スティーヴ・マリオット@フェイセズを耳にしても雑音にしか聴こえないかもしれない。
いっぽう信長や秀吉が、伴天連がセミナリオで奏でる西洋音楽に深く感動したという記録もある。「違う」ということが、「違い」そのものが、感動や共感の基のひとつ。そんな面もあるのではないか。
もしそうなら、まことに不思議なことである。
◆最後はカルロス・ヴィヴェスが世に出た〝La Tierra Del Olvido〝。PFC版で。