せっかくの映画の日なので、
TVニュースで取り上げられていた映画「ホテルルワンダ
」を見に行ってきました。
マイナーな映画館ではあるけれど、ニュースの後だし、映画の日だしで混雑を覚悟してたんですが・・・
人いねぇ~~~~!!
と思ったら単に私が早く来すぎただけだったみたいで、最終的にはパイプ椅子持ち出して通路に座るような状態になってました。ああ良かったw
感想は・・といえばそれはもう、皆さんのご想像通りの内容です。
泣きましたよハイ。そりゃもう先進国の冷酷ぶりに。・゚・(つД`)・゚・。
あと劇中で出てきたセリフ
「大虐殺の映像を流しても、視聴者は『怖いね』と言うだけで、すぐにまたディナーを続ける」
にも凄く同意。
結構前に流行った「ホワイトバンドプロジェクト」なんてモロ典型じゃないっすか。
今でも腕につけている人は何人残ってるんでしょうね。
未だに更新してるサイトがいくつあるんでしょうね。
この映画のテーマに
「人はどこまで残酷になれるか」
というのがあったと思うんですが、それは同時に
「人はどこまでを人だと認識するのか」
という意味もあるんだと思うんですよね。
劇中で異民族に対して「ゴキブリども」という言い方をしてました。
つまり、彼らにとっては「人を殺している」のではなく「害虫を駆除している」のだという感覚なんですよね。
「害虫の駆除」ならば私たちも平気でやってますもんね。
そこを誰かに非難されても「なんで?」としか思わないですもんね。
つまりそういうこと。
目の前のそれが人間でないのなら殺しても構わない。
”でも人の形をしているのにそんな簡単に切り捨てられるわけがないじゃない”
そう思う人も多いと思う。
でも現実はそうでもない。人は簡単に人を切り捨てる。
奴隷制度なんてのもその典型だし、アパルトヘイトなんかつい最近まで維持されてた。
「あんな奴は人間じゃない」
何気ない一言だけど、実はこの時既に人間を切り捨ててしまってる。
”殺す”か”殺さない”か、
一番重大そうに見えるここのトコは実はただ単に”きっかけが有るか無いか”にしか過ぎなくて、残酷な意思はもっと前から成立してる。
殺しても”良い”か”悪いか”は心の中ではもっとずっと前に決まってる。
環境が変わってしまえば、きっと簡単に殺してしまう。
”私は絶対そんな事はしない”
そう断言できる人でも、普段こんなことをしてるんじゃないだろうか。
・店で買い物をして、お釣りを多く貰った事に気付いたのに何食わぬ顔でそのまま出て行った。
・面倒だったので、ゴミを道端に捨てた。
”誰かに害を与えても、自分と無関係な相手になら構わない”
”殺してもいい”という考えは、この心理の延長上にあるのだと私は思う。
延長上に自分があるのなら、最終地点に自分が行き着いてもおかしくない。
そう自覚しておく必要はあると思う。そうすればいざという時自分を見誤らなくて済むかもしれないから。
自分を見失わずに済むかもしれないから。
それでも
”私は絶対そんな事はしない”
なんて軽口を叩く人がいたら・・・
その人には常に警戒しておく必要があるだろう。
ある日突然後ろから刺されない為に。(爆)