「己……。抜かったわ!」
 魔獣は怒り狂っていた。そして、魔獣は大きく蛇行しながら、ゆっくりと南へと向かっていた。その広い視界に入った全ての人間を滅ぼしながら、魔獣は南へと駆け続けていた。
 白鴉もいつの間にか消え去っており、人々の恐怖の対象はこの魔獣だけとなっていた。が、魔獣は人々にとって強大すぎた。そのため、皆、逃げる間も無く魔獣の牙や爪の犠牲となり、その短い一生を終える事となったのである。
 その中で、唯一人魔獣に立ち向かい、未だ戦い続ける者がいた。その者は力の限り叫び続け、この魔獣の暴走を止めようと努力した。が、その声も魔獣には聞こえないのか、魔獣は眉一つ動かさなかった。それでも、彼は叫び続けたのである。
(止めろ! 止めてくれ!)
 レインは力の限り叫び続けていた。今、レインは無力であった。それをレインは知りつつも、叫ばざるを得なかったのである。
 レインは魔獣がクサナギの一撃を受け、南へと暴走を始めてから今まで、ずっと叫び続けていた。レインは体の自由が効かなかった。が、にも関わらず、目、耳、鼻と言った五感だけは、レインにはいつにも増してはっきりと感じ取れたのである。
 それは、正に生き地獄であった。なぜならば、人々の恐怖に染まった顔、空気を切り裂くような断末魔の声、凶悪な爪で凪払った時の感触、巨大な口で人々の体を食い契った時の歯ごたえ、そして、味……、それらが全てはっきりと、レインには感じられたのである。
 そして、さらに、魔獣は女子供であろうとも、決して情けはかけなかった。要するに、魔獣の視界に入った人々には、老若男女関係無く全てに平等の恐怖と死が与えられたのである。
 クサナギの傷痕も最早無く、レイン自身も腹の傷の痛みは消え去っていた。だが、そんな事に、レインは気づく余裕すらなかった。ただ、目の前に起こる光景を止めるために叫び続ける事だけしか、レインの頭には無かったのである。
 と、遙か前方に子供を抱いた女性がいる事に、レインは気づいた。それは当然、魔獣もその事に気づいていると言う事に、他ならなかった。そして、次の瞬間、魔獣はその女性と子供に向かって、全速力で襲いかかっていた。
(な……? や、止めろ!)
 レインは全身全霊を以て叫んだ。と、二人を薙ぎ払おうとした魔獣の右手が、寸前でふと止まった。そのため、レインは胸を撫で降ろした。
 が、その瞬間、魔獣は二人を右手で押し潰した。それは、まるでレインを嘲笑うかのような、残忍な行為であった。
(……? 野郎! てめえなんか人間じゃねえ!)
 レインは一瞬、声を失い唖然とした。が、次の瞬間、レインはそう怒鳴りつけていた。
「当たり前だ。我々をこの愚か者共と、一緒にするな」
 と、魔獣が初めて、レインの声に答えた。その声は、怒りに満ち満ちていた。
(我々……? 一体、おまえは誰なんだ?)
「私はきさま、きさまは私。我々は愚かな愚民共とは、非なる存在なのだ」
(おまえが俺で、俺がおまえだ? 訳のわからねえ事、ほざいてんじゃあねえ!)
「古の記憶を知らず、人間の社会に馴れ親しみ過ぎた、きさまにはわかるまい」
(俺は人間だ! その他の何物でもない!)
 レインは叫んだ。その声には、焦りと不安が入り混じっていた。
「思い出せ。人間共が、我々にした事を……。三種の神器を奪い、愚民共を従え、我々に戦いを挑んできたあの男の事を……。きさまは許すのか? あの憎むべき、タケルの事を……」
(知るか! 俺にはそんな事は、どうでも良いんだよ! 俺は惚れた女と一緒になって、死ぬまで暮らせるだけの金がありゃあ、それで良いんだよ!)
「きさまも実の家族が殺された時、怒りが込み上げてきたであろう? 私の気持ちも、それと同じなのだ」
(煩い! 煩い! 煩い! 煩い! 煩い! 俺は絶対、思い出さねえぞ!)
「ならば、思い出せてみせようぞ」
 そう言うと、魔獣は一路南へと駆け出していった。今までとは打って変わり、人々を無視して、魔獣は南へと駆け続けた。
(どこに、行く気だ?)
「神の降臨し地、リジン……」
 そう言うと、魔獣は無言で南へと駆け続けていった。そして、魔獣はラルグーンの南、魔性の森へと飛び込んでいったのであった。