帝都ラルグーンの東に位置する湖、レイト湖。そのレイト湖と西のガルト海とを結ぶ川は、魔性の森をほぼ半分に分けて走っていた。雨はすでに止んでおり、その川の流れもいつもの落ち着きを取り戻していた。
 その川岸に、二つの人間の影があった。そこは、魔性の森の西の外れであり、少し西へと進むとガルト海が垣間見える所であった。
 その川岸にいる二人は頭から足の先まで、全身びしょ濡れであった。片方は女性であり、その女性は死んだように横たわっていた。そして、もう片方は男であり、その男は木に寄りかかってその女性の方を見詰めていた。
(ちっ……。俺はどうしちまったんだ? こんな見た事も無い女を……。しかも……、そう、しかもだ! 命懸けで助けるなんて!)
 その男、レインはその女性、エルミを見詰めながら眉を顰めた。エルミの頬は寒さで青白く、唇も微かに震えていた。一方、レインも同じように寒気を覚えていたが、焚火をする訳にはいかなかった。なぜならば、その焚火の明かりによって、帝国の兵士達に自分達の存在とその位置を気づかれる、恐れがあったからである。
 そのため、レインは寒さをじっと我慢し、朝を待つ事にしたのであった。それももうすぐの事であり、東の空が明るくなり始めていた。夜中、ラルグーンと魔性の森の上空に居座っていた暗雲も今はもう無く、星々が暁の空に瞬いていた。
(この不細工な女の所為で、散々な目にあったぜ)
 レインがそう表情を歪める。と、朝日の光が、エルミの顔を明るく照らし出した。その透き通るような白い肌と整った顔立ちを見ると、レインは思わず横を向いて目を逸らしてしまった。
「ちっ……」レインは舌打ちをした。
(いやに、奇麗じゃねえか……)
 レインは軽く地面を右拳で叩くと、すっと立ち上がった。そして、東の方に向き直ると、レインは朝日を眩しそうに見詰めた。
 朝日の光がレインに降り注ぎ、ゆっくりとレインの体を暖めていく。やがて、服もある程度乾き、レインの頬に赤みが差していった。
(何かが……、起ころうとしている。いや、起こっていやがる。それが、何かは分からねえ……)
「ちっ」レインは舌打ちした。言い知れぬ不吉な予感に、レインの脳裏に一度は追放したはずの記憶が、はっきりと呼び覚まされようとしていた。
 と、レインは両手で両耳を押さえると、顔を強く左右に振った。そして、そのまま、レインは崩れるように跪いた。そのレインの両目は固く閉ざされ、何かを怖れるようにレインの体は震えていた。
「忘れろ……、レイン。過去は……、過ぎ去ってしまった事は……、忘れるんだ」レインはそう言い聞かせるかのように、虫の音ほどの声で呟いた。
 しばらくして、レインはゆっくりとだが、力強く立ち上がった。その姿にさっきまで弱々しく震えていた時の弱さは、全くと言って良いほど存在しなかった。しっかりと両足で立ち、両拳を握り締めてレインは、朝の光を再び見詰めた。
「ん……」と、エルミが呻き声を上げた。
 それに気づくと、レインは振り向き、エルミに向かってゆっくりと近づいていった。そして、エルミの側に座り込むと、レインはその顔をじっと見詰めた。
(この女は……、なぜ、帝国の兵士どもに追われていたんだ? 女盗賊とは、言えそうもないし……)
「いや、止めて……。お父さんを……、お母さんを……、殺さないで……」エルミがそう、寝言を言った。その目には、薄らと涙が滲んでいた。
(人間……、人に知られたくない事の……、一つや二つあるもんか……)
 レインは溜息を一つ吐くと、ゆっくりと立ち上がった。そして、ふと腰の袋を開くと、レインは血脈の短剣を取り出した。その刃は昨夜と同じように、赤く怪しく光り輝いていた。
 不思議な事に、レインにはその赤い光が心地好く感じられた。そして、その光は昨夜より微かにだが、明るさを増しているように見えた。
 レインは首を傾げた。その血脈の短剣は不思議な短剣であった。その重さは感じられず、そして、それを握っているという感触も何か違っていた。
(この短剣……、この女……、昨日の暗雲……、そして……、俺……。共通点は何も無い。いや、ある? いや、無い。いや……、何かがあって、何も無いのかも……?)
「くっ……! これは……、夢だ! そうだ! 俺はきっと……、とてつもなく悪い夢を見ているんだ! そうに違いない」レインは空を仰ぐと、そう自分に言い聞かせた。
(不安だ……。何だ? 何がそう不安なんだ、レインよ? 何が……?)
「うっ……。あっ?」と、エルミの声が聞こえたので、レインはエルミの方を振り向いた。
「け……、血脈の……、短……、剣……?」そのエルミは恐怖に怯えた目で、レインの右手の血脈の短剣を凝視していた。それを見ると、レインは不思議そうにエルミと血脈の短剣を交互に見詰めた。
「おい、女。おまえはこの短剣が何か……、知っているのか?」レインはそう聞きながら、ゆっくりとエルミに近づいていった。
 すると、途端にエルミは顔を青く染め後退り、木を背にして縮こまってしまった。そのため、レインは困ったように左手で頭を掻くと、後ろに血脈の短剣を投げ捨てた。
 そして、再びゆっくりとエルミに、レインは近寄っていった。が、エルミの警戒心は解けはしなかった。
「おい、あんたは一体何者で、何を知り、なぜ帝国の兵士なんかに追われているんだ?」レインがそうエルミに詰め寄る。
「嫌……、怖い……。思い……、出したくない……」エルミは両手で両耳を塞ぐと、微かな声でそう呟いた。
「ちっ……」レインは舌打ちすると、後ろを振り返って軽く地面を蹴った。
「わかった。何も聞かねえ。だけど、名前ぐらいは教えてくれねえか?」と、レインがエルミに背を向けたまま、聞く。
「……。エルミ……」そうエルミは小さく答えた。
「そうか。俺はレインって言うんだ。どうやら、あんたも俺も帝国に恨みを買っているらしい。そこで……、だ。俺と一緒に逃げねえか?」レインが振り向きざま、そう尋ねる。
 すると、エルミは黙って頷き、弱々しく立ち上がった。それを見ると、レインは笑みを浮かべ、投げ捨てた血脈の短剣を拾い上げた。その瞬間、エルミはレインに背を向けた。
「御願い……。それは、置いていって……」エルミが震える声で、そう言う。
 それを、レインは不思議そうに見詰めた。そして、少し考えると、レインはゆっくりと川に近づいていった。
「わかったよ。これは、捨てて行こう」そう言うと、レインは血脈の短剣を川へと投げ捨てた。
 血脈の短剣はゆっくりと、川底へと沈んでいった。その血脈の短剣の輝きが徐々に増していった事に、レインは気づかなかった。
「これで……、良いだろう?」そう、レインが振り返る。
 それを見て、エルミがすまなさそうに俯く。すると、レインは微笑みを浮かべ、ゆっくりとエルミに向かって歩き出した。
 と、突然、レインは左胸に鈍い音と痛みを感じ、ゆっくりと左胸に視線を移した。すると、そこには、研ぎ澄まされた鏃が突き出ており、太陽の光を反射して光り輝いていた。
 そして、レインは窮めてゆっくりと、地面に崩れ落ちていった。そのレインの耳に、何人もの人間が川を渡る音と、エルミの叫び声が微かに聞こえてきた。
(お……、俺は……、死ぬのか……?)
 徐々に、レインから全ての感覚が薄らいでいった。そして、何も聞こえなくなり、その瞳には何も映らなくなった。
(親父……、おふくろ……、俺は、死ぬのか? ディゼ……、お兄ちゃんはお前達の所に行くのか……?)
「い……、や……、だ……」レインは掠れた声で、そう呻いた。
 過去の記憶が走馬灯のように、レインの脳裏に浮かんでは消えていった。レインの父、母、そして、最愛の妹、ディゼの姿が、何も映らないはずの瞳に映し出された。
 そして、レインは意識を失った。