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公教育は、歴史的にも実態としても、国民国家(自分は日本人だという共同幻想によって成り立つ国家)の部品を作るための工場であり、もともと個人の自己実現とは関係がない。
「不登校」、「自殺」、「いじめ」などは、その構造に起因する必然なのだろう。

先生たちは、自分達がやってきてしまった本当のことに、はっと気づいて戦慄すべきだ。

 

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そこで行われてきた、「個人の可能性を破壊して、社会の部品として世に出す」という作業は、「思考停止と盲従」という人生態度を身に着けた大衆を作りあげ、この国の自浄能力を破壊し続けてきた。
 

 

「強制教育」は国家権力の都合であり、個人の幸福を志向するならば、決定的な誤りである。

 

 

日本国憲法は、かなり上から目線で書かれていて、いろいろおかしいが、特に、「国民の義務」は、少なくとも憲法の主旨と矛盾しており、削除されるべき項目である。

 

 

人は自由意志に基づいて、自分の人生を選択していくべきである。ある個人がどのような教育を受けるか受けないかは、その個人や家族の意思と選択に依るべきであり、公権力が介入してはならない。
本来は、多様な「教育」選択肢から、個々に方針を選んで自己実現を目指すことができる環境がなければならない(それは、支配構造の破壊に結びつくだろうが)。

 

 

「道徳」は、あからさまな憲法違反に見えるが、どれほど異常な行為も、みんなが当然視しているうちは、問題になることはない。
そもそも、「隠れたカリキュラム」論を考えれば、内心に干渉せずに教育を行うことは無理なわけだから、「公権力は、教育に金をだすべきだが、口を出すべきではない」が正しく、学習指導要領自体が憲法違反と言える。

 

 

例えば、原発事故は、学校と主要メディアが、「国と電力会社にとって都合の良い原発必要安全論」を、人々に刷り込み続けたことによる、必然的な帰結である。
先生たちは、原発について児童生徒に言ってきたことなど、忘れているだろうが、「騙されている先生が語る常識」が、さらに児童生徒を騙していく構造を理解するべきだ。

 

 

学校は、実態が極めて醜悪であるにも関わらず、「個人の幸せを実現する装置」を装わなければならない。
このため、「明るく楽しく元気よく」的な偽善的標語や、意味不明な「おめでたさ」を前面に打ち出す必要がある。
 

 

先日の朝、校門の前でうつむいてしまい、校内に入ることができず、家族に説得されている小学1年生を見た。
強制収容を当然だと勝手に思いこんでいる大人たちに囲まれ、自分に非があるわけではないと気付くこともできず、どんなにかつらいだろうと思ったが、直接どうしてあげることもできない。
もうすぐ時代は変わるから、何とか耐えて生き延びてくれ、不登校児たちよ。

 

 

*原画像作成者様に感謝申し上げます。

 

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真実を認めると、自分の人生全体が否定されかねない人も、少なくないだろう。特に、学校が支配装置であるという現実と向き合うには、困難が予想される。しかし、児童生徒の無垢に付け込んで洗脳調教することを、これ以上続けるわけにはいかないのではないか。

 

支配構造の急所は「学校」にある。子供たちを学校から解放するべきだ。