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日本の公教育は、「権力による強制」と、「受験クイズによる脅迫」によって行われてきた。
人は、そういった強権による支配構造に、しばしば意識的に無意識に便乗し、自らにとって美味しい思いをしようとしてしまうものだ。

 

 

教育機関は一般に、児童生徒を性的なものから遠ざけようとする。
その思想で女子児童生徒に強制着用させるなら、ズボンが正解のはずだが、実際は、スカートの強制着用が行われてきた。
そして、この「判断ミス」は、「体操着」や「水着」でも見られ、「より体の線が目立つデザイン」が採用されてきた(おそらく色の選択も性的に最適化されている)。

 

 

風俗業界では、制服・体操着(ブルマ)・スクール水着は、コスプレの三種の神器のように扱われているわけだから、言い訳は不能である。
女子児童生徒は、男性の性的な興奮を助長する衣服を、長年にわたって強制着用させられてきた。
これらの衣服を導入するに、おそらくは、男性管理職による誘導があっただろうし、その後も内心これ幸いと引き継がれてきたはずだ。

 

 

女性が自発的に自分の魅力を引き出す衣服を着るのは、何も問題がない。
しかし、公権力による強制着用は、気違い沙汰だと言える。
最近ブルマは見かけないが、「エロいからやめた」のであれば、それまでの強制着用について、反省や謝罪の表明はあったのだろうか。

 

 

この国の教育現場は、Pedophiliaな人々にとって楽園のような環境だっただろう。
「教えられる側から選ばれなくても、公権力によって教壇に立てる」制度は、明確に誤りである。

もっと言えば、「女子だけを集める学校」が出来た経緯にも、強い疑いが持たれるべきである。
教育を志す人々が、純真に「女子だけを集めて教育しよう」などと、果たして本当に思うかな?

 

 

教育に金がかかるほど、機会の平等は失われていくが、それを全く無視した様々な強制出費が用意されてきた。
その周辺で生計を立てている人々には申し訳ないが、それは、公権力を利用して「児童生徒にたかっている」状態である。
究極、受験システム自体が、公権力による壮大な無駄であるから、その児童生徒の不幸を利用して、学習産業全般がたかっていると言っていい。

 

 

例えば、学校があるから「早く寝なさい」とか「勉強しなさい」と言う時、それは、自分の言葉で子供たちを説得できないから、学校という強制力を持ちだしている疑いが強い。
そうやって、権力による強制力を何気なく利用してしまうのだろう。
運動会も、権力の強制力に便乗して、「子供たちを使って見世物をさせている」かのようなイベントである。

 

 

子供たちは、そこで、先天的な身体能力を表沙汰にされて、「公開処刑」されたり、組体操に至っては、死人が絶えない。
日本全体が思想の近代化に失敗しているため、「異常に気付かない」のだろうが、相手が子供であれ大人であれ、その自由意志が気にならないとしたら、「近代人としてはサイコパス」である。
子供たちが、「徒競走で走りたくありません」とか、「組体操で死にたくありません」とか、言えないとしたら、それは、管理している大人たちの「頭がおかしい」からである。

 

 

多くの場合、児童生徒は自分の意思で学校にいるわけではなく、先生を選んだ覚えもない。
義務教育外でも、高校に通っているのは、実質、受験の脅迫のためであり、自由意志とは言えない。
にも関わらず、「さあ先生の話を聞きなさい」という態度を取れるとしたら、残念だがやはり、「近代人としてはサイコパス」と言わざるを得ない。
相手の自由意志を全く気遣わず権力をかざしてしまう、その自分自身の人格に、先生方は気付く必要がある。

 

 

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真実を認めると、自分の人生全体が否定されかねない人も、少なくないだろう。特に、学校が支配装置であるという現実と向き合うには、困難が予想される。しかし、児童生徒の無垢に付け込んで洗脳調教することを、これ以上続けるわけにはいかないのではないか。

 

支配構造の急所は「学校」にある。子供たちを学校から解放するべきだ。