茶の湯とは静寂な濃茶笑む薄茶
確かに息吹く能と狂言 道舜

茶の湯は精神骨骼としては「禅」であると言われます(※)が、その表現方法としてはむしろ「能と狂言」の方が親しい存在であるように思います。

能と狂言の関係性と、濃茶と薄茶の関係性が対比としてわかりやすく、また、幽玄を捉える在り方が、やはり能と狂言に結びつきます。

そもそも、日本に抹茶と茶の木をもたらしたのは禅宗ですが、茶の湯を体系化した始祖は中尾真能であり、禅僧であはりません。ですから、禅は茶道の在り方が模索されて行く中で、茶室の設えを整える一手段として大勢を占めるも、それが絶対ではないことがわかります。

ですが、能と狂言は茶の湯を始めた武家階級の嗜みであり、切って切り離せるものではなかったのです。

茶の湯の足の運びは能と似ており、柄杓の鏡柄杓の構えは弓の構えに似て、馬乗袴を付け、点前をするものです。能と弓と馬とは、武家の必修科目です。

ここを見落としては、茶の湯の本質にたどり着けないのではないかと、考える次第です。

※私は禅という修行法が亭主の心を鍛えるものであるとは思えども、茶道の在り方が禅だとは考えていません。ましてや利休時代の禅は小乗禅です。現在知られる大乗禅は白隠以降のものです。