新藤兼人監督通夜しめやかに 津川雅彦、豊川悦司ら1000人参列
オリコン 6月2日(土)20時2分配信


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5月29日に100歳で逝去した新藤兼人監督の祭壇には、遺作となった映画『一枚のハガキ』を演出する遺影が飾られた(C)ORICON DD inc.
 5月29日に老衰のため亡くなった日本最高齢の映画監督で脚本家の新藤兼人さん(享年100)の通夜が2日、東京・港区の増上寺光摂殿でしめやかに営まれ、俳優・津川雅彦、豊川悦司、竹中直人ら著名人、関係者ら約1000人が参列した。新藤監督が亡くなったことを受けての会見で、大往生した監督に「おめでとうを申し上げたい」と語っていた津川は、弔辞で「今ここで撤回します。先生、ごめんなさい。おめでとうだなんて言っちゃって」と、最期まで映画監督として生きた新藤監督との別れを偲んだ。

【写真】今年2月、元気な姿を見せていた新藤兼人監督(12年02月05日)

 津川は「亡くなる前の晩、『では英語と日本語の2回撮りましょう』とうわごとでおっしゃったとか。100歳のお誕生日を元気でお迎えになって、37日目をもってのこの寝言です」と感服。80歳の誕生日から「これが最後の作品です」と言い続け、その後6本の作品を撮った監督に「『生きている限り生き続けたいと宣言され、案の定、大往生の前の晩まで日米合作をお撮りになったその執念、参りました。降参です」と語った。

 新藤監督の遺影を愛おしげに見つめた津川は、「これは弔辞というよりは僕の最後のラブレターと思ってください」と穏やかな表情。弔辞を読み進めるうちにだんだんと涙声に変わっていき、自身も出演した遺作『一枚のハガキ』での「打ち上げの席でおっしゃっていた、『生きていればこそ』というその先生のひとこと。今日から毎日実践していきます。先生、愛してます。ありがとうございました」と誓った。

 遺影は2010年、遺作となった『一枚のハガキ』の撮影時に撮影されたもので、喪主を務めた次男で映画プロデューサーの新藤次郎氏(63)が選んだ。高さ3メートル、幅9メートルの祭壇は、映画『裸の島』(1960)の舞台になった広島県三原市の宿祢島をイメージし、2002年に受章した文化勲章のほかコチョウラン、白ユリ、トルコキキョウ、アルストロメリアなど8種類計2000本の花で彩られた。

最終更新:6月2日(土)20時43分

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暗黒の稲妻