<硫黄島>遺骨収集へ新資料…日本軍配置、米軍記録
毎日新聞 5月5日(土)10時12分配信

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硫黄島=在日米海軍の輸送機から2011年6月、岩下幸一郎撮影
太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)で戦死した旧日本兵の遺骨収集を進める政府特命チーム(チームリーダー・本多平直首相補佐官)は、当時の米軍が島の攻撃目標を記録した内部資料を米国立公文書館で発見した。日本軍が持久戦を展開した塹壕(ざんごう)の出入り口が多数示されているとみられる。日本軍の配置を示す資料が見つかったのは初めてで、難航している遺骨収集が大きく進展する可能性が出てきた。
【昭和毎日】硫黄島の日本軍全滅 1945年03月17日
見つかったのは1945年の硫黄島の戦闘に参加した米海兵隊第3師団作成の「日本軍要塞情報」。4月上旬に訪米した政府チームが、メリーランド州の米国立公文書館新館で確認した。
厚生労働省によると同師団は硫黄島中央部の攻撃を担当。資料は砲撃の照準を合わせる「座標」を表した図面で、島中央部を約183メートル四方の正方形マス95個に区分している。一つのマスにつき1~十数個の点が打たれており、米軍が特定した塹壕の出入り口を示したものとみられる。
これまでの遺骨収集は生存者の証言や現地での塹壕跡の捜索などに頼っていたが、島の地下に広がる入り組んだ塹壕の全容はつかめていなかった。厚労省の担当者は「日本軍の塹壕や戦闘拠点が地図上で分かれば、遺骨収集が進む」と期待する。
また特命チームは、カリフォルニア州の米海軍設営隊資料館で、硫黄島で日本兵が集団埋葬された場所の正確な面積を示す資料も新たに発見した。集団埋葬地は島中央部の自衛隊滑走路西側と、南西部の摺鉢(すりばち)山のふもとの2カ所にあることが分かっていた。今回の資料には埋葬地を囲ったフェンスの長さが記録され、それぞれ約4700平方メートル、約430平方メートルあった。
島南西部の埋葬地は、すでに遺骨の収集作業が行われた区域とほぼ一致。中央部は現在も作業が続いており、政府は特定された区域を集中的に調べる方針だ。【新垣和也】
◇硫黄島の遺骨収集◇
太平洋戦争末期の1945年2~3月、東京の南約1250キロにある小笠原諸島の硫黄島で、上陸した米軍と日本軍が激しい戦闘を展開。日本側は約2万1900人の死者を出した。52年に始まった遺骨収集は島が日本に返還された68年から本格化。従来の収集は遺族らが中心だったが、民主党政権は2010年に菅直人前首相の指示で設置した特命チームが米側の公文書調査に着手し、集団埋葬地の存在を新たに確認した。10年度は822柱、11年度も344柱の遺骨を収容したが、なお約1万2000柱が見つかっていない。
最終更新:5月5日(土)11時57分
記事のみ紹介。
暗黒の稲妻
毎日新聞 5月5日(土)10時12分配信

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硫黄島=在日米海軍の輸送機から2011年6月、岩下幸一郎撮影
太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)で戦死した旧日本兵の遺骨収集を進める政府特命チーム(チームリーダー・本多平直首相補佐官)は、当時の米軍が島の攻撃目標を記録した内部資料を米国立公文書館で発見した。日本軍が持久戦を展開した塹壕(ざんごう)の出入り口が多数示されているとみられる。日本軍の配置を示す資料が見つかったのは初めてで、難航している遺骨収集が大きく進展する可能性が出てきた。
【昭和毎日】硫黄島の日本軍全滅 1945年03月17日
見つかったのは1945年の硫黄島の戦闘に参加した米海兵隊第3師団作成の「日本軍要塞情報」。4月上旬に訪米した政府チームが、メリーランド州の米国立公文書館新館で確認した。
厚生労働省によると同師団は硫黄島中央部の攻撃を担当。資料は砲撃の照準を合わせる「座標」を表した図面で、島中央部を約183メートル四方の正方形マス95個に区分している。一つのマスにつき1~十数個の点が打たれており、米軍が特定した塹壕の出入り口を示したものとみられる。
これまでの遺骨収集は生存者の証言や現地での塹壕跡の捜索などに頼っていたが、島の地下に広がる入り組んだ塹壕の全容はつかめていなかった。厚労省の担当者は「日本軍の塹壕や戦闘拠点が地図上で分かれば、遺骨収集が進む」と期待する。
また特命チームは、カリフォルニア州の米海軍設営隊資料館で、硫黄島で日本兵が集団埋葬された場所の正確な面積を示す資料も新たに発見した。集団埋葬地は島中央部の自衛隊滑走路西側と、南西部の摺鉢(すりばち)山のふもとの2カ所にあることが分かっていた。今回の資料には埋葬地を囲ったフェンスの長さが記録され、それぞれ約4700平方メートル、約430平方メートルあった。
島南西部の埋葬地は、すでに遺骨の収集作業が行われた区域とほぼ一致。中央部は現在も作業が続いており、政府は特定された区域を集中的に調べる方針だ。【新垣和也】
◇硫黄島の遺骨収集◇
太平洋戦争末期の1945年2~3月、東京の南約1250キロにある小笠原諸島の硫黄島で、上陸した米軍と日本軍が激しい戦闘を展開。日本側は約2万1900人の死者を出した。52年に始まった遺骨収集は島が日本に返還された68年から本格化。従来の収集は遺族らが中心だったが、民主党政権は2010年に菅直人前首相の指示で設置した特命チームが米側の公文書調査に着手し、集団埋葬地の存在を新たに確認した。10年度は822柱、11年度も344柱の遺骨を収容したが、なお約1万2000柱が見つかっていない。
最終更新:5月5日(土)11時57分
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暗黒の稲妻