「ゴジラ」と「鳥インフル」…科学の倫理問う
読売新聞(ヨミウリオンライン) 4月27日(金)16時25分配信


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鳥インフルエンザの発生を想定した訓練で、消石灰を散布する高知県の職員(昨年10月)
 水爆実験で安住の海底から追われたゴジラ。吐き出す火炎が首都をなめる。
 ゴジラを倒せるのは、孤高の青年科学者が発明したオクシジェン・デストロイヤー(水中酸素破壊剤)しかない。だが、かれは悩む。まだ公表していないこの発明を使えば、武器に使おうとする政治家がきっとでてくる。
 「これだけは、悪魔の手に渡してはならない」。設計法を知っているのは自分だけだ。かれは大切な研究資料を燃やし、海中でコジラを倒してみずからの命を絶つ--。
 このゴジラ映画が公開されたのは1954年。科学の知識や科学の生み出す技術には悪用の危険が伴っているという考えを、社会はこの当時から広く共有していたのだろう。
 それから半世紀。強毒性の鳥インフルエンザウイルスについての研究成果を論文として公表すべきかどうかという議論が、昨年末に起きた。比較的簡単な遺伝子操作で、このウイルスを人同士でも感染させられるように改変できる可能性を指摘した研究だ。
 公表すれば、他の科学者がそれを参考にしてワクチンの開発を進められるかもしれないが、一方で、論文の方法をまねてウイルスを作ってばらまく生物テロに悪用されるかもしれない。米政府系の委員会は、研究内容の詳細を伏せるよう勧告した。世界保健機関でも議論され、科学者の多くは外部からの規制に反対した。結局は、このウイルスがそれほど危険ではないことを理由に、研究論文は公表されることになった。
 この一件は、科学の研究がそのまま社会に受け入れられるわけではないことを、あらためて示した。科学は善にも悪にも使える。その当然のことが、科学の世界と一般社会とでうまく共有されていない。だからときに、「科学者」対「一般社会」ともみえるような摩擦が生じる。
 科学は、一般社会とは違う独特の世界だ。だから、その価値観はしばしば社会と対立する。科学の知識は、自由な発想から生まれ、科学者同士の相互チェックをへて積み重ねられていく。知識の正当性と正統性は、科学者の自律から生まれる。
 他から強制されるものではない。科学者たちはそう思っているから、外部からの研究規制を、とてもきらう。科学の営みは、他の世界とのかかわりを絶って殻にこもる性格をもっている。
 では、そうした殻のなかで生み出される科学知識が悪用される危険性を、だれが予測し、どのような仕組みで回避するのか。インフルエンザウイルスの問題は、科学者は社会に対してどのような責任を負うべきかという古くて新しいテーマに関係している。
 原子核物理が原爆に応用された現実を振り返り、物理学者の坂田昌一は1957年、科学者は真理を追い求めていればそれでよいという状況ではないと述べ、社会に目を向けることを求めた。そして科学技術社会論が専門の藤垣裕子・東京大学教授は、この問題にいま、情報の大量流通という現代的な側面が加わっていると指摘する。
 現代は、たとえば講演会の内容が、演者が会場を出る前にネットで流れ出るほど情報は広がりやすい。たとえ科学者たちが研究成果を非公開にしても、ツイッターなどをきっかけに漏れることは十分にありうる。それに、いまは論文の本数が業績評価の基本になるので、科学者は研究がすこし進むごとに小刻みに論文を書いて本数をかせぐ。
 現代の科学者は、さきのゴジラのころのように、大きな成果を頭のなかで眠らせてはおかない。どうせ小出しに情報が漏れるなら、いっそのことすべて公開して科学者の責任はそこまでで打ち止めにし、そのさきは社会にあずけてしまうほうが現実的なのだろうか。
 さらにこれは、科学に対する社会の信頼をどう確保するかという問題でもある。もし科学者が、みずからの責任として科学情報の公開、非公開を選り分けたとしても、それが信頼につながる保証はない。有益な情報を科学者だけが独占していると批判されかねない。それを防ぐには、科学者の行いに市民がいつも目を光らせておくことができるよう、情報の公開をかぎりなく進めること。そうするとテロに悪用される可能性があり・・・。
 事は単純ではない。このほかにも、情報の非公開と市民の知る権利との関係、公表の規制は科学の発展を妨げないのか、国が科学を悪用することはないのか、そもそも科学の善用と悪用の別を判断するのはだれなのか。
 科学研究の「デュアルユース(善悪両方に使えること)」ともよばれるこの問題について、日本学術会議が検討している。考えるべき事柄があまりにも多く、「こうすれば科学の悪用を防いで社会の幸福のために役立てられます」という明快な一般則を描くのは難しそうだ。したがって、個別の事柄に対してはそのつど最良の策を考えるほかはないだろうが、事あるごとにゼロから検討を始めたのでは手間も時間もかかりすぎる。
 日本学術会議は、経験豊かな学者たちの集まりなのだそうだ。ゴジラ映画の時代から市民が漠然と抱えている科学への不安感に、なんとか手を差し伸べてほしいと願う。
(読売新聞科学部デスク 保坂直紀)

最終更新:4月27日(金)16時25分

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暗黒の稲妻