高松塚古墳、壁画発見40年 「地域で大切に」祠で被葬者慰霊祭
産経新聞 3月21日(水)15時16分配信
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高松塚古墳近くの祠で営まれた慰霊祭 =21日午前、奈良県明日香村(恵守乾撮影)(写真:産経新聞)
■「壁に色のついた絵が…」
奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末~8世紀初め)で飛鳥(あすか)美人壁画(国宝)が発見されてから、21日で40年を迎えた。この日午前には、村民や歴史愛好家らが、被葬者の骨を納めてある同古墳近くの祠(ほこら)で慰霊祭を営んだ。
【フォト】高松塚古墳石室の西壁に描かれた女子群像像
同古墳の調査は昭和47年に県立橿原考古学研究所と同村、関西大の学生らが参加して実施。飛鳥美人壁画などのほか、男性とみられる被葬者の大腿(だいたい)骨やあごの骨なども見つかっており、地元の要望で納骨器に納め、祠に安置されている。
慰霊祭には、地元の歴史愛好家でつくる「飛鳥古京顕彰会」の花井節二さん(71)や古代衣装に身を包んだ女性らが参列。被葬者を慰霊する斎詞を奏上した後、参列者が祠の前に次々と玉串をささげた。
当時の発掘調査に携わった同顕彰会のメンバー、上田俊和さん(71)は「高松塚古墳の築造から約1300年の時がたち、これから先も変わることなく地域で大切に古墳や壁画を守っていくことを祠に眠る被葬者に語りかけました」と話した。
■感動の瞬間歴史に
「壁画に出合ったのが20歳。発見40年の節目には還暦、定年。人生そのものが高松塚と一緒に歩んできたように思えます」
昭和47年の高松塚古墳発掘に学生として参加した兵庫県芦屋市教委文化財担当主査の森岡秀人さん(60)は、今月末で定年退職を迎える。「発見40年は感慨深い」と話しながら、この日も市教委調査事務所で残り少なくなった公務員としての業務に励んだ。
ただし、40年前のことは今も鮮明に覚えている。47年3月21日午後0時半ごろ、昼食をすませて高松塚古墳に戻ろうとしていた森岡さんらに、先輩が慌ただしく駆け寄ってきた。
「現場がたいへんや」「何か事故でも」と尋ねると、「ここでは言われへん。とにかく先生から『早くみんなを呼び戻せ』と言われたんや」と急に小声になった。
現場では、調査を指揮する関西大助教授(当時)の網干善教(あぼしよしのり)さん(故人)が緊張した面持ちで口を開いた。「壁に色のついた絵がある」
壁画発見の瞬間だった。石室(全長2・6メートル、高さ1メートル)は押し入れほどのスペースしかなく、調査団で最も小柄な女子学生が中に入り、壁画の状況を口頭で報告。その内容を石室入り口でメモしたのが森岡さんだった。
「蛇がからんで輪っかみたいになっている。壁の奥には女の人が4人。とてもふっくらした顔です」。幻の神獣「玄武」や飛鳥美人像などについて報告する女子学生の張り詰めた声。「まるで黄泉(よみ)の国から響いてくるようだった」と森岡さんは振り返る。
当時、奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)に勤務していた猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(74)は発見の一報を文化庁から受けた。「天井に星があって、壁が白くて女の人の絵が描いてある」。極めてあいまいな内容だったが、それだけ国にとっても衝撃的な発見だった。その後、石室の保存施設設置や発掘に携わり、古墳への愛着はひとしおだ。
劣化で消えかかった白虎像について、「何とか発見時の状態に描線を加えることはできないか。文化庁はもってのほかと言うかもしれないが、40年前の感動を後世に伝えることができる」と話す。
歴史教科書の年表にも記されるようになった「高松塚発見」。「あの感動は、すでに歴史の一ページになったのかもしれない」。森岡さんも猪熊さんも、同じ感慨にふけった。
最終更新:3月21日(水)16時49分
奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末~8世紀初め)で飛鳥美人壁画(国宝)が発見されてから、21日で40年を迎えたそうだ。
暗黒の稲妻
産経新聞 3月21日(水)15時16分配信

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高松塚古墳近くの祠で営まれた慰霊祭 =21日午前、奈良県明日香村(恵守乾撮影)(写真:産経新聞)
■「壁に色のついた絵が…」
奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末~8世紀初め)で飛鳥(あすか)美人壁画(国宝)が発見されてから、21日で40年を迎えた。この日午前には、村民や歴史愛好家らが、被葬者の骨を納めてある同古墳近くの祠(ほこら)で慰霊祭を営んだ。
【フォト】高松塚古墳石室の西壁に描かれた女子群像像
同古墳の調査は昭和47年に県立橿原考古学研究所と同村、関西大の学生らが参加して実施。飛鳥美人壁画などのほか、男性とみられる被葬者の大腿(だいたい)骨やあごの骨なども見つかっており、地元の要望で納骨器に納め、祠に安置されている。
慰霊祭には、地元の歴史愛好家でつくる「飛鳥古京顕彰会」の花井節二さん(71)や古代衣装に身を包んだ女性らが参列。被葬者を慰霊する斎詞を奏上した後、参列者が祠の前に次々と玉串をささげた。
当時の発掘調査に携わった同顕彰会のメンバー、上田俊和さん(71)は「高松塚古墳の築造から約1300年の時がたち、これから先も変わることなく地域で大切に古墳や壁画を守っていくことを祠に眠る被葬者に語りかけました」と話した。
■感動の瞬間歴史に
「壁画に出合ったのが20歳。発見40年の節目には還暦、定年。人生そのものが高松塚と一緒に歩んできたように思えます」
昭和47年の高松塚古墳発掘に学生として参加した兵庫県芦屋市教委文化財担当主査の森岡秀人さん(60)は、今月末で定年退職を迎える。「発見40年は感慨深い」と話しながら、この日も市教委調査事務所で残り少なくなった公務員としての業務に励んだ。
ただし、40年前のことは今も鮮明に覚えている。47年3月21日午後0時半ごろ、昼食をすませて高松塚古墳に戻ろうとしていた森岡さんらに、先輩が慌ただしく駆け寄ってきた。
「現場がたいへんや」「何か事故でも」と尋ねると、「ここでは言われへん。とにかく先生から『早くみんなを呼び戻せ』と言われたんや」と急に小声になった。
現場では、調査を指揮する関西大助教授(当時)の網干善教(あぼしよしのり)さん(故人)が緊張した面持ちで口を開いた。「壁に色のついた絵がある」
壁画発見の瞬間だった。石室(全長2・6メートル、高さ1メートル)は押し入れほどのスペースしかなく、調査団で最も小柄な女子学生が中に入り、壁画の状況を口頭で報告。その内容を石室入り口でメモしたのが森岡さんだった。
「蛇がからんで輪っかみたいになっている。壁の奥には女の人が4人。とてもふっくらした顔です」。幻の神獣「玄武」や飛鳥美人像などについて報告する女子学生の張り詰めた声。「まるで黄泉(よみ)の国から響いてくるようだった」と森岡さんは振り返る。
当時、奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)に勤務していた猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(74)は発見の一報を文化庁から受けた。「天井に星があって、壁が白くて女の人の絵が描いてある」。極めてあいまいな内容だったが、それだけ国にとっても衝撃的な発見だった。その後、石室の保存施設設置や発掘に携わり、古墳への愛着はひとしおだ。
劣化で消えかかった白虎像について、「何とか発見時の状態に描線を加えることはできないか。文化庁はもってのほかと言うかもしれないが、40年前の感動を後世に伝えることができる」と話す。
歴史教科書の年表にも記されるようになった「高松塚発見」。「あの感動は、すでに歴史の一ページになったのかもしれない」。森岡さんも猪熊さんも、同じ感慨にふけった。
最終更新:3月21日(水)16時49分
奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末~8世紀初め)で飛鳥美人壁画(国宝)が発見されてから、21日で40年を迎えたそうだ。
暗黒の稲妻