ほしいも生産農家の高齢化 100年の伝統どう伝える
産経新聞 2月25日(土)14時41分配信


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工場屋上でほしいもを天日干しする幸田商店従業員ら=ひたちなか市烏ケ台(写真:産経新聞)
 【ほしいも新時代】「今年は8、9月に適当な降雨があり、冬は乾燥して強い寒気があった。いい条件に恵まれおいしい、質のいい干し芋ができた」

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 茨城県ひたちなか市長砂の永井農芸センター代表、永井喜平さんは手応えを感じている。

 ただ、東日本大震災に伴う原発事故の影響で売り上げは3割程度落ち込んでいる。「地震は天災だからしようがないとしても、二度とこんなことあったらダメだよね。地元の関係機関も対策を立ててくれているから被害を最小限度に食い止められればいいが…」。例年以上に品質のいい干し芋ができたのに風評被害は大きく、恨み節もこぼれる。

 永井さんは干し芋一筋55年。東京ドーム3個分、計15ヘクタールの畑にサツマイモを栽培。この地域でも最大規模の干し芋生産農家だ。

 ひたちなか市、那珂市、東海村の3市村では約800軒の農家が干し芋作りにかかわっている。

 全国の干し芋生産量の9割は茨城が占め、その大半が3市村に集中。地元では「かんそいも」(乾燥芋)と呼ぶ人も多い。正式には「甘藷(かんしょ)蒸切干(むしきりぼし)」。

 茨城で干し芋作りが始まったのは約100年前の明治41(1908)年という説が有力。江戸時代に静岡県御前崎地区で始まったサツマイモの「煮切り干し」がルーツとされ、茨城産が静岡産を抜いたのは昭和30年ごろとみられている。

 水産加工が盛んな茨城沿岸部では、魚の干物の製造技術と設備が干し芋製造に応用できた上に、冬はサツマイモのデンプンの糖化に適した10度以下の気温、乾燥に適した海からの強い風と好条件がそろい、日本一の生産地に成長した。

 また、那珂川と久慈川に挟まれた3市村一帯の黒土の土壌は、通気性が良く、保水力があり、サツマイモ栽培に適しているという見方もある。

 干し芋作りは機械化できない作業が多い。2月に入り、既に生産のピークを過ぎているが、永井農芸センターでは、この日も作業が続けられていた。

 蒸されたイモはピアノ線を張った突き棒(スライサー)と呼ばれる器具に押しつけて薄く平たい形に切り分け、別の作業員が板状のすだれに並べていく。慣れた手つきで素早く作業が進められるが、作業員の大半は60~70代だ。

 地域の生産農家も高齢化が進む。永井さんの後継者も決まっていない。「地域の伝統産業だから若い人に引き継いでもらいたい。昔は企業秘密とかいって、それぞれのコツを他人には教えなかったが、後を継ぐ人がいないのはさみしいからね」。最近では講習会を開くなどノウハウを地域に残す活動にも協力している。

 3市村では茨城ほしいも対策協議会を設立。衛生加工、生産履歴の明示など3条件を満たした生産農家を「三ツ星生産農家」に認定。毎年「ほしいも品評会」などを開いている。

 また、産地を代表する干し芋製造販売会社、幸田商店(ひたちなか市)では農業生産法人「幸田農園」を設立、10ヘクタールの畑も持ち、原料のサツマイモ栽培から加工まで丁寧に作る「15年前の農業」で本物志向の干し芋を極める。一方でスティックタイプやひとくちサイズ、携帯しやすい少量パックなどコンビニエンスストア向きの商品開発も進め、若い女性など新たな購買層の開拓にも成功した。鬼沢宏幸社長は「ほしいも、スローフードの代表のようなもの。その価値が認められているのだと思う」。

 干し芋作りは100年積み重ねてきた地域の文化でもある。次世代にどう伝えていくか、地域の大きな課題になっている。

最終更新:2月25日(土)18時41分

干し芋はおやつがわりで結構好きなんだけどな。
無くなるというのは寂しいな。

暗黒の稲妻