<チェコ>ハベル前大統領死去 ビロード革命の立役者
毎日新聞 12月18日(日)21時10分配信
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バツラフ・ハベル元大統領=2002年6月撮影
【ウィーン樋口直樹】旧チェコスロバキアの共産政権を非暴力で倒した「ビロード革命」(89年12月)の立役者で、民主化後初の大統領を務めたバツラフ・ハベル前チェコ大統領が18日、チェコ北部の別邸で死去した。75歳だった。死因は不明だが、長年肺を患い、96年には肺がんの手術を受けていた。現地メディアなどが伝えた。
「ビロード革命」--。流血を伴うことなく、ビロードのようになめらかに進んだ民主化革命のことをこう呼ぶ。「反体制派劇作家」と称されたハベル氏は「真実と愛はうそと憎しみを克服する」をモットーに、平和的な民主化移行と自由経済の導入を成し遂げ名声を得た。
旧チェコスロバキア大統領の後、93年にはチェコとスロバキアの分離に立ち会い、チェコの初代大統領を2期10年務めた。
ハベル氏は36年10月、首都プラハの裕福な企業家の下に生まれた。48年に共産主義体制が確立されると、実家の財産は没収され、高等教育を拒否された。劇団活動や演劇批評に打ち込む青春時代だったが、改革運動「プラハの春」(68年)では非党員組織「独立作家の会」の議長として民主化運動に参加した。
「プラハの春」が旧ソ連軍中心のワルシャワ条約機構軍に鎮圧されると、ハベル氏は作家活動から締め出され、反体制派運動へ傾倒。77年、独裁的なフサーク体制の人権抑圧に対する抗議をしたためた「憲章77」の発起人に。何度も逮捕や投獄を繰り返したが、「憲章77」の賛同者は増え続け、12年後の共産政権打倒につながった。
ロイター通信によると、訃報を受けたネチャス首相は「彼は我が共和国の象徴であり顔だった」と地元テレビに哀悼の辞を述べた。
最終更新:12月19日(月)9時33分
自由貿易、資本主義だと主張しても、自由に旅行もできず、常に町中を軍が監視、挙句の果てに政府にとって不都合な発言があれば、立処に無きものにされ言論の自由も無い国家。
暴力無しに国を変えるのは凄い事だ。
色んな考えがあって人によっては綺麗事に聞こえるかもしれないけど、リビアみたいに人が死にまくるよりはいい。
謹んで御冥福をお祈りいたします。
暗黒の稲妻
毎日新聞 12月18日(日)21時10分配信

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バツラフ・ハベル元大統領=2002年6月撮影
【ウィーン樋口直樹】旧チェコスロバキアの共産政権を非暴力で倒した「ビロード革命」(89年12月)の立役者で、民主化後初の大統領を務めたバツラフ・ハベル前チェコ大統領が18日、チェコ北部の別邸で死去した。75歳だった。死因は不明だが、長年肺を患い、96年には肺がんの手術を受けていた。現地メディアなどが伝えた。
「ビロード革命」--。流血を伴うことなく、ビロードのようになめらかに進んだ民主化革命のことをこう呼ぶ。「反体制派劇作家」と称されたハベル氏は「真実と愛はうそと憎しみを克服する」をモットーに、平和的な民主化移行と自由経済の導入を成し遂げ名声を得た。
旧チェコスロバキア大統領の後、93年にはチェコとスロバキアの分離に立ち会い、チェコの初代大統領を2期10年務めた。
ハベル氏は36年10月、首都プラハの裕福な企業家の下に生まれた。48年に共産主義体制が確立されると、実家の財産は没収され、高等教育を拒否された。劇団活動や演劇批評に打ち込む青春時代だったが、改革運動「プラハの春」(68年)では非党員組織「独立作家の会」の議長として民主化運動に参加した。
「プラハの春」が旧ソ連軍中心のワルシャワ条約機構軍に鎮圧されると、ハベル氏は作家活動から締め出され、反体制派運動へ傾倒。77年、独裁的なフサーク体制の人権抑圧に対する抗議をしたためた「憲章77」の発起人に。何度も逮捕や投獄を繰り返したが、「憲章77」の賛同者は増え続け、12年後の共産政権打倒につながった。
ロイター通信によると、訃報を受けたネチャス首相は「彼は我が共和国の象徴であり顔だった」と地元テレビに哀悼の辞を述べた。
最終更新:12月19日(月)9時33分
自由貿易、資本主義だと主張しても、自由に旅行もできず、常に町中を軍が監視、挙句の果てに政府にとって不都合な発言があれば、立処に無きものにされ言論の自由も無い国家。
暴力無しに国を変えるのは凄い事だ。
色んな考えがあって人によっては綺麗事に聞こえるかもしれないけど、リビアみたいに人が死にまくるよりはいい。
謹んで御冥福をお祈りいたします。
暗黒の稲妻