牽牛子塚古墳は斉明天皇陵か、実証の小古墳発見
読売新聞 12月9日(木)17時1分配信
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床石(手前)などが残る越塚御門古墳の石室。奥の高まりは牽牛子塚古墳=大久保忠司撮影
女帝・斉明天皇(594~661年)の墓と確実視されている奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後半)の隣接地から、孫の大田皇女(おおたのひめみこ)の墓とみられる古墳が見つかり、村教委が9日発表した。
斉明天皇陵の前に大田皇女を葬ったとする「日本書紀」の記述と合致し、牽牛子塚古墳が真の斉明陵であることが決定的となった。宮内庁は、南西に約2・5キロ離れた車木(くるまき)ケンノウ古墳(同県高取町)を斉明陵に指定しており、指定のあり方を巡って論議を呼びそうだ。
村教委は、牽牛子塚古墳の石室の南東約20メートルの地点で発見されたこの古墳を「越塚御門(こしつかごもん)古墳」と命名した。見つかったのは、石室の床石と巨石をドーム状にくりぬいた壁の一部で、石室は幅約3メートル、奥行き約3・5メートル、高さ約2・6メートル。石室の南側には小石を敷いた参拝用の墓道(幅約1メートル)が約4メートル分確認された。近くで黒い漆膜の破片十数点などが出土、高級な漆塗りの木棺があったとみられる。墳丘は削られているため、古墳の形や規模は分かっていない。
日本書紀には、斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)が667年に合葬され、斉明陵の前に大田皇女が葬られたと記されている。牽牛子塚古墳には石室が二つあり、今年9月には、7世紀の天皇陵に特徴的な八角形墳と判明、斉明陵であることが確実になっていたが、今回の発見でそれが裏付けられた形だ。
最終更新:12月9日(木)17時1分
これは非常に興味深い話なので・・。
これで確定という訳では無いだろうけど、相当近いと言う事なんだろうね。
確固たる証拠の確定で決めるにはもう少し調査が必要なんだろうなぁ。
暗黒の稲妻
BGM:朝の陽ざしに君がいて(By安全地帯)
読売新聞 12月9日(木)17時1分配信
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床石(手前)などが残る越塚御門古墳の石室。奥の高まりは牽牛子塚古墳=大久保忠司撮影
女帝・斉明天皇(594~661年)の墓と確実視されている奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後半)の隣接地から、孫の大田皇女(おおたのひめみこ)の墓とみられる古墳が見つかり、村教委が9日発表した。
斉明天皇陵の前に大田皇女を葬ったとする「日本書紀」の記述と合致し、牽牛子塚古墳が真の斉明陵であることが決定的となった。宮内庁は、南西に約2・5キロ離れた車木(くるまき)ケンノウ古墳(同県高取町)を斉明陵に指定しており、指定のあり方を巡って論議を呼びそうだ。
村教委は、牽牛子塚古墳の石室の南東約20メートルの地点で発見されたこの古墳を「越塚御門(こしつかごもん)古墳」と命名した。見つかったのは、石室の床石と巨石をドーム状にくりぬいた壁の一部で、石室は幅約3メートル、奥行き約3・5メートル、高さ約2・6メートル。石室の南側には小石を敷いた参拝用の墓道(幅約1メートル)が約4メートル分確認された。近くで黒い漆膜の破片十数点などが出土、高級な漆塗りの木棺があったとみられる。墳丘は削られているため、古墳の形や規模は分かっていない。
日本書紀には、斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)が667年に合葬され、斉明陵の前に大田皇女が葬られたと記されている。牽牛子塚古墳には石室が二つあり、今年9月には、7世紀の天皇陵に特徴的な八角形墳と判明、斉明陵であることが確実になっていたが、今回の発見でそれが裏付けられた形だ。
最終更新:12月9日(木)17時1分
これは非常に興味深い話なので・・。
これで確定という訳では無いだろうけど、相当近いと言う事なんだろうね。
確固たる証拠の確定で決めるにはもう少し調査が必要なんだろうなぁ。
暗黒の稲妻
BGM:朝の陽ざしに君がいて(By安全地帯)