息子と金を買いに行ったんだけど、それをブログに書くとき
このブログだったらあんまり気にならなかったんだけど
もし、これをメルマガに書くとなると氣を使うだろうな~~って思ったんだ。

なにせ、お金の話。これは、子供の頃から、人にしてはいけないって
教わっていた。実は、長男と金を買ってきたかえりに母にお礼にいったんだけど
そのとき、きっちり「あんた、金買ったって言ったらあかんで」って念を押されていました。
そんなにきつい言い方じゃないんだけど、やはり、あ~~っそんな風に昔から
言われてたんだよね。たしかに、嫉妬心を買わないように防御してたんだって。

もちろん、父母の時代背景から、当然のことだった。昔は、生きるので精一杯の
ひとが多かった。特に近所の人達は、文化住宅やちいさな借家住まいのひとばかり
その中で浮かれた話しを無神経にしてしまったら、どんなことを言われたか、わから
ない時代だった。まだ、戦後まもなくだもの。1960年代から70年代にかけてのこと。
戦争が終わって、二十年ぐらいしかたっていない。そんな時代のこと。
だからしかたなかったよね。

そして、ふり返って我が身。
金を息子と買いに行く話し。
不特定多数の人に、こんなこと言っていいんだろうか?って不安がよぎる。
金持ちだから、そんなことできるんだって声が聞こえてきそうだ。まさに
非難されると言うよりも、知られてしまったと言う感覚。

だから、すぱっと言えなかったり、表明できなかったりするところ。
ここが弱いんだよね~~。ここから何だよね~~。
だから、この部分の罪悪感があるうちはきついんだよね。

この罪悪感をきってもきってもなかなか出てくる。どうすればいいのか?
もしかしたら、慣れるしかないのかな?それとも、それがあるんだって
認識して、愛でてあげる。クリアリングするのがいいのかな?

その出てきた感情をクリアーにする。ホ・オポノポノだね。

もし、その罪悪感がなくなったらどれほどいいか。どれほど自由か。
これを手放すことをこれからやっていくんだ。

それが、金を残すより、なにより大切なこと。
豊かであることに罪悪感をもってしまう社会を変えること。
これがぼくの使命。

・・・ほんとか?そんなこと。がらじゃないよね。使命って。
使命なんかは、横に置いておいて、平穏無事に日々を過ごす。
これが大切なことじゃないかな?

でも今朝も、乗ろうと思った電車が、飛び込み自殺で来なかった。
さらに、昼食のとき、隣の席での会話。「この世界で生きていくためには
多少の自己犠牲は必要だ。本気で生きるのなら、もっとハードワークしな
ければならい。休日を休みたかったら、平日、遅くなっても文句言っては
ならない。もし、平日早く帰りたかったら、土日出勤は覚悟しろよ」
そんな会話を聞く。こんな世界で良いの?
なんで、そんな世界なんだ?ここに疑問をもたないか?

もし、いまの自分の生活を赤裸々に語ったら、そんな人から、なんて言われ
るか?想像つく?言えないよね。こんなに恵まれていること。
でも、恵まれているからこそ、体験できることがある。恵まれているからこそ
感じられる世界がある。恵まれているからこそ、伝えられる世界がある。
それを伝えるのが自分の使命。いや、ぼくがもし、唯一かたることが出来ると
すると、その部分がオンリーワンなところ。

豊かさを感じ、まわりの人と繋がっていける発信。人生を喜びのなかで生きる
感覚、それを伝えることはできる。できるのは、それだけ。