おはようございます。

DJ Toshiです。

 

 

なんでしょうね…

 

天気のせいなのか

体がだるい、頭が重い…

 

気力が低迷中です…

 

とりあえず今日は

やることやって

体を休めることにしよっかな。

 

 

さて、

 

 

自民党の

宮沢衆議院議員。

 

議員辞職するってよ。

 

 

え?誰だっけ?

 

顔を見たら思い出します。

 





『喋るな、喋るな。これですよ!』

 

派閥裏金のことを

記者のぶら下がりで暴露して

ニュースになった議員。

 

 

議員辞職ということは、

議員そのものを辞めるという

国会議員には一番重たい決断。

 

造反とも言えるあの行為で

自民党にも居づらくなったんでしょう。

 

辞めさせる工作なのか、

近々彼の女性問題が

週刊誌に載るってことで

これを機に辞職を決めたそうです。

 

 

なんというか…

 

裏金作ったとはいえ、


何でも話してしまう

正直な男です。

 

 

僕ね、思うんです。

 

自民党の99%は腐ったクズ。

 

一握りの議員に残った

わずかばかりの良心って

あると思うんです。

 


ん?

 

だからと言って同情するつもりは

一切ありませんよ。

 

この宮沢という男も

ゴミ本人にわずかに残った良心が

裏切られたことで

怒りとなって爆発した。


これこそが、

人間の本質とでも言うんでしょうか。

 


そもそもが

腐れ外道の仲間になったときから

そんなものは何の役にも立たず、

己を苦しめるだけ。

 

腐れ外道に

なりきれなかったこの男は

道を誤ったのだ。

 

 

もう一度言いますが、


なんら同情の余地はありません。

 

 

こういう話って

世の中にゴロゴロあります。

 

最初はそのつもりもなく所属して

気づいたら外道の溜まり場。

 

ひとえにこれは己の

主体性の無さが成せる業。

 


表面的にしか捉えず、

それそのものの本質を見極め、

熟慮した結論を出せなかった

自分の落ち度です。

 

 

世間の大半の人間は

悪の一員に入ったと気づいても


気づかないフリをし続け、

自分を正当化することに

急にスイッチするのです。

 

愚かしい自分を

他人に悟られたくないから。

そんな自分を認めたくないから。

 

 

己の間違いを認めるのは

他人ではなく自分自身です。

 

それを誤魔化した人間の末路は

自分の良心を消し続ける作業を

延々と繰り返し続けて

現状の自分を保つことに勤しむ。

 


誰であろうと

これをやっています。

 

ほら見てください。

 

自民党の連中、


小池百合子、


その他の悪そうなやつらの行動。

 

 

なぜ嘘を付くのか。

なぜ誤魔化すのか。

 

己に残ったわずかな良心が

そうさせてるんです。

 

0.0000001%の心が

『これは良くないこと』

 

そう認識してるってことです。

 

 

すべてが悪なら

それすらもありません。


『これの何がわるいんだ?』


開き直って悪の諸行を続ける。

 

自民党はほぼそれをやってます。

 

ひとつの国の人々の命を

自分の利益のために利用する。

 

こいつらは

気持ちがいいほどのゴミです。

 

 

子どもの頃に

本来なら培われる良心。

 

そんなものより

のし上がって人を利用して

金を集めることだけを

日常的に、

まるで三度の飯を食うように刷り込まれた

ゴミ議員の二世、三世ども。

 

そんな連中に

日本国民の心が

理解できるはずがない。

 

 

しかしそんなことすらも

考えられない支援者たち。

 

自分の欲で

ゴミ議員に群がったジジイたちは


まるで後ろめたさを打ち消すように

『先生!先生!』

とへばりつき、

媚びへつらう。

 

この支援ジジイどもも同じく、

政治に関心を持たないのに

文句だけ言う連中。

 

大多数が正義だと言わんばかりに

堂々とゴミ発言をする

国民の一人になっていく。

 

マジョリティの

主体性の無さの成せる業。

 

 

僕の個人的意見ではありますが、

 

主体性を育むのは

孤独しかありません。

 

ひねた孤独ではなく、

内側を奥底まで見渡す行為。

 

孤独というのは

自分が作り上げる状態。

 

大勢友人がいようが

孤独は作れます。

 

協調性ばかりが持て囃されていますが、

主体性のない協調に

何の意味があるというのでしょうか?

 

協調性とは

主体性を持つ個が他者の意見を聞いて

自分の主体性の和を広げていく、

バージョンアップさせる行為に過ぎません。

 

そして、

たまたま繋がった者同士が

連携して行動していくということ。

 

 

思惑ありきの集合体を

協調の誤魔化しすることを

大人がやっていれば、

 

子どももそういうものだと

感覚で感じ取ってしまいます。

 

現にそうなっています。

 


主体性の無い大人たちが

子どもたちを委縮させ、

良心を少しずつ削っていくのです。

 

己の内側にある

人としてどうあるべきかに

向き合うことが、

世の中の協調性を作っていくことだと

僕は思っています。

 

 

最後に


昨日の山本太郎の国会質疑、

貼っておきます。


 

能登の被災者が

もう大丈夫だと思う感覚。

 

皆さんも思ってませんか?

 

ほぼ何も変わっていません。

 

これに怒りが起こらないなら

あなたの良心は蝕まれています。

 

 

 

 

 

 

僕が息子を

ひとりで育てられた理由。

 

彼をずっと近くで、

遠くから見つめていたから。

 

今すること、来年すること、

五年後に向けて考えること、

10年後の彼が大人になること

 

それをずっと想像しながら

今やることを決めてきたから。

 

手を離してはいけない。

手を放さなくてはいけない。

 

それを見極めてきたからです。

 

僕が正解だと言いたいわけじゃない。

人を想うということは

これぐらい考えて行動するということ。

 

 

山本太郎は

能登から手を放しません。

 

世間が忘れかけても

たった一人、

国会で代わりに怒鳴ってくれる。

 

そういう男しか

僕は信用するつもりはない。

 

これこそが

主体性のある人間の行動です。

 

 

 

ではでは、

 

しーゆーねくすとたいむ