前回の記事で書いた日本山妙法寺、

 

そこの尼さんの一人、純さんと呼ばれる女性。

この純さんこそ、僕のアメリカの母と呼ばれる人物。

この純さん、仏に帰依し出家された身なのでもちろん坊主で丸坊主。

坊主頭に大きめの眼鏡、夏は日焼け、冬は霜焼けでいつでもほっぺたが赤く、いつでもニコニコしてるのでまるでアンパンマンのような人。

僕が初めて純さんに会ったのはいつやったんやろか?

88年にデニスたちと会った時には居てはったように思うんやけど、あんまりはっきりとは覚えてへん、、、


とにかく確実に覚えてるのは、89年の初渡米時、確か11月ごろデニスとニューヨーク州にあるシックスネイションズ(六カ国連合)のオノンダガに行く道中、同じくニューヨーク州の州都であるアルバニーから車で東へ小一時間走った、マサチューセッツとの州境にほど近いグラフトンという田舎町。

この田舎町のはずれの山奥でたった一人、寺を構え、ピースパゴダを建設していた純さんを数日間訪ねた。

ピースパゴダとは、平和仏塔、シャンティストゥーパ、仏舎利塔、ストゥーパ、卒塔婆、すなわちお釈迦さんの骨とされる仏舎利を安置し、祈りの対象となる塔のこと。

 

少しグラフトンピースパゴダについての説明をすると、

 

1978年のザ・ロンゲストウォークに参加した純さん(前回ブログのリンク記事の中に登場する安田法尼と言うのが純さん)がその後ずっとアメリカンインディアン支援(この表現が適切かは??なのだがちゃんと説明しだすと長いので、とりあえずニュアンス的にはそんな感じで)のために留まり、デニスがまだ収監される前に逃亡生活を送っていてオノンダガに亡命していた時には、約2年間デニスの家族たちと一緒に生活もしていたそう。

 

そして1983年、当時デニスがサウスダコタの刑務所に収監されていた時の支援行動として、NY州の州都アルバニーで断食してた時、同じく長年アメリカンインディアンのサポートをされていたハンク・ヘイゼルトン氏が断食している純さんの姿に心打たれ、自分の持つ12エーカー(12やったと思うんやけど17やったような気も、、、)の土地を寄付するので、そこに平和の為の仏舎利塔を建てて欲しいと、、、

 

で、純さん、その提案を受け1985年から町のメインストリートに教会と小さなグロサリーストアが一軒だけの、本当に小さな田舎町のさらに山奥でたったひとり仏舎利塔の建設を始めたらしい。

 

12エーカーってどれぐらいの広さかと言うと、1エーカーは約4047平方メートル、ちなみに東京ドームが46755平方メートルで約11,5エーカーらしいので、まあまあ広いよね。

 

でも、その12エーカーの土地、もらったはいいが手つかずの原生林のままで、まずは開墾から始めなあかん状態やったらしい。

 

純さん、土地を切り開くための重機の免許なんか持ってるはずも無く、もちろんその為の資金があったわけでもない。

それでも何十年かかろうが此処に仏舎利塔を建てると決めたので、とりあえずひとりシャベルで土地を掘り起こし始めたんだそうです。

しかしそこは小柄な普通の女性、数日で手の皮がぼろぼろになり痛くてシャベルが持てなくなったので、次は手持ちの小さなスコップに持ち替えて作業を続けたそう。

 

それでも続けていると手が痛くてスコップすら持てなくなったので、今度は料理に使うオタマで地面を掘っていたらしい。

 

ほんまに小柄で華奢な純さん、そのオタマすら作業を続けてると持てなくなったらしく、最終的にはスプーンで12エーカーの土地を掘り続けていたんやって、、、、

 

 

っと、今日はここまで

 

 

 

ps,

余談やけど東日本と西日本ではシャベルとスコップの認識が逆って知ってた?

東京では大きい方がスコップやねんて。