今日は天気がいいけど、すごい強風で外出する気になれない。朝1時間だけテニスをしたけど魔球との戦いだった。昼食後、風はさらに強くなり、家でうだうだとしながら「ヒエラルキー」について考えてみた。とりとめのない文章です。

 

 

私はかなり鈍いのでヒエラルキー(階層)というものについて意識が低かった。最近、よく「格差」とか「K字型経済」とか、よく耳にするようになって少し考えてみた。

 

私は31歳で転職した。最初に就職したのは未上場の小さな無名会社で、人に話しても誰も知らず少し悲しかった。自然と上場企業というものに転職したくなった。バブルのときに転職成功。転職先は上場企業S社。S社に転職したけど、最初はその子会社のQ社に出向した。私はS社の社宅に入った。Q社では

「ダーさん、どこ住んでるの?」

と聞く人が何人かいて、そのたびに私は

「〇〇市のXX(地名)社宅」なんて答えていた。

「あー、そうなんだ」などと相手は反応した。彼らはほとんど別のところに住んでいた。実はXX社宅に住めるのはS社の社員だけで、Q社のプロパーとして入社した人(所属がQ社)は入れない。彼らはQ社独自に借り上げしたアパートに住んでいることが多かった。

 

 

Q社には、S社からの出向組、Q社で採用されたプロパー、Q社の子会社で採用された人がいた。(Q社には国内外に子会社が数社あった。S社から見たら孫会社)。女性も同様。女性の場合には、さらには派遣社員もいた。そして、それぞれの人たちの学歴も、中卒、高卒、専門学校卒、高専卒、大卒、院卒、博士とまちまちだった。転職してきた私には誰がどうだかさっぱりわからなかったけど、彼らにはわかっていた。その採用状態によって給与も年収も昇進も違っていた。S社採用の大卒以上の比率は本社で20%くらいだったかもしれない。

 

入社した当時、ちょうどウィンドウズが出始めたころで、各人がPCを端末として使い始めたころだった。会社全体のシステムと個人PCとのネットワークを作り始めていた。私が使いながら「なんだか使いにくいシステムだなぁ」と独り言を言ったら、近くにいたシステム部の部長が顔を真っ赤にして怒っていた。

「文句を言うな!文句言うなら使うな!」

「あんたみたいな大卒は何をしてもそのうち出世していくんだろうけど、俺たちは一生懸命こうして頑張っているんだ。それでも出世しないんだ。気安く文句なんか口にするんじゃない!」と。

その部長は高卒のたたき上げだった。出向者かプロパーかはわからない。ただ、部下は皆さんプロパーで大卒未満だった。

 

 

企業がより多くの利益を出すには

①    販売数を増やす、②販売単価を上げる、③コストを下げる、ことが必要だ。

③のコストには人件費も含まれる。企業としては可能な限りコストを下げたいので、業務や目的に応じて人材を求める。必要以上に優秀な人は余計なコストだから要らないけど、ある程度は優秀な人(管理職候補)も必要だ。だから「平等」ということはない。適材適所などと上手い言葉があるけれど、それは所得(会社にとっては経費)も考慮される。

 

 

その後、私はQ社からS社の本社へと異動になったけど、そこには、S社採用の様々な学歴の人、派遣社員、女性は総合職と一般職、派遣社員という立場の違いがあった。これらが目に見えないヒエラルキーになっていた。(Q社採用の人はいない)

(私が異動したS社のある事業部の4つの部のその1つの部の売上だけでも、Q社全体の売上よりも大きかった)

 

工場も同様というか、もっとヒエラルキーの差が大きかったような気がする。博士、大学院卒の技術者がそれなりにいて、ただの大卒は少なかった。ほとんどは高卒の正社員と職工と呼ばれる派遣会社の人たち。製品にもよるけど、正社員は10%以下のところもあった。景気動向によって派遣社員は増減対象になった。人手不足の昨今は、より利益の大きい部署に優先的に優秀な派遣社員が手配され、弱小製品だと「最後の残り」みたいな人が来たりした。

 

 

同じ企業グループ内ですらこのようにヒエラルキーが出来てしまっている。さらに日本全体で見れば、売上が10兆円規模、1兆円規模、1000億円規模、100億円規模、10億円規模などでかなりの格差がある。同じ部長でも年収500万円と2000万円では全然違う。もちろん、会社がデカければいいというものではないけど。

 

例えば、弁護士事務所でも日本を代表するようなところには弁護士が800人くらいいる。それぞれの「先生」は得意分野があって、その先生の下にアシスタントが数人いる形だ。国際的な技術的な紛争を英語でやり取りしたり、国を相手に訴訟を起こしたりもする。公認会計士事務所でも同様でデカいところは先生がたくさんいる。弁護士先生が1人の事務所、公認会計士先生が1人の事務所と大手事務所ではビジネスのスケールが全然違う。

 

歯医者だって、私が今通っているところは、歯科医が1人。歯科衛生士が6人、事務員が2人といった体制か。歯科医と衛生士では所得は全然違うはず。

以前通っていた大手町の歯医者では、歯科医が6人くらいいて、それぞれにアシスタント(衛生士)が3,4人ついて、事務員が2,3人いた。

 

 

ビジネスだから分業と言えば聞こえがいいかもしれない。ただ、同じ職場でも資格や所属で所得が全然違う。資本主義、民主主義社会では、福沢諭吉の言うように人は学問をすることによって上にも行ける、ということになっているので、皆、少しでも上のヒエラルキーに行くために学校で勉強を頑張る。頑張ると言っても、いわゆる偏差値を上げて、偏差値の高い大学に入ったり、高収入を見込める資格を取ったりする。熱心な親は子供の時から有名私立に入れたがるのはそのせいだ。前の会社に「うちは私立ではないですよ」というのがいて、でも聞いてみたら、国立小学校だった。国立小学校に入れるには住む場所も選ばないといけない。

 

 

私の両親はいわゆる教育パパ、ママではなかった。父は大学を出ていたけど、出世した学生時代の友人が病気で倒れて入院しているところにお見舞いに行って、

「だから、そんなに働いたって仕方ないって言ったんだ」

なんて笑って言ったりしたらしい。父は何事もほどほどだったような気がする。

いつまでも就職活動をしない私には、

「お前な、たかがサラリーマン、されどサラリーマンって言ってな、サラリーマンなんてつまらない職業だとも言えるけど、実際やってみるとなかなか味があるんだぞ」みたいなことも言っていた。

 

私の妻も教育ママではなかった。社宅には子供を近所の「自由保育の幼稚園」に入れようという人が多かった。一種の英才教育を求めているらしかった。ところが妻は「普通の幼稚園がいい」と言って、うちの子だけは別の「普通の幼稚園」に行った。「社会に出たらいろんな人がいるんだから、まずは普通のところへ行って、いろんな子と交わるべきだ」というのが妻の持論だった。(それが良かったのかどうか、よくわからないけど)

 

 

偏差値、年収、車、住む場所などでマウントを取りたがる人がいる。同じ東京に住んでいても、「西高東低」と言って、東京の西の方が東よりも「高級」「品がいい」というイメージがある。「江東区に住んでいる」と言うよりも、「杉並区に住んでいる」という方が聞こえがいいのだ。神奈川県ならば「横浜に住んでいる」というのが結構強い。実際は横浜って言ってもかなり広くて、不便な場所もいっぱいあるんだけど。こういうのって、他の都道府県でもあるらしい。京都出身のある知人なんか「本当の京都人っていうのは、応仁の乱の前から住んでいる家系のことなんですよ」と言う。

韓国でも「ソウルに住んでいる」というのは、ちょっとしたブランドらしい。

 

ヒエラルキーという言葉とクラス(class)という言葉の意味の違いはよくわからない。英国ではクラスによって飼う犬も違うとか。あの国には、まだ貴族もいるんですよね。ダイアナ妃のスペンサー家なんて「平民」ということだったけど、実家はお城のようだった。欧州には貧乏人には縁のない街も多い。ホテルも最低一泊20万円くらいで。いわゆる高級リゾート地なんて、普通の日本人が行っても場違いに思うだけだ。

 

 

 

残念ながら、世界は平等ではない。生まれ育ち、年収、才能で随分と生きる世界が違ってくる。オリンピックで活躍している選手は努力の賜物だけど、貧乏な国からはメダルを取れるような選手はなかなか出ない。国が豊かか、もしくは、国が国威発揚のために支援しているか。自国のオリンピック選手がメダルを取ると嬉しいのだけど、他国の選手だってメダルを取っているはずだ。報道のされ方に少し疑問を感じる。

 

日本も江戸時代は士農工商という身分制度があった。生まれた時から親の身分と同じ身分にしかなれなかった。食物連鎖と同じく、年貢を納める農民が息絶えたら武士も困るので「生かさず殺さず」政策が採られた。資本主義の萌芽か、一番下のはずの商人たちは次第にお金を稼ぎ貯めて、実質的な立場を強くしていった。

数々の独裁国家、王国が民主主義を導入して、「平等」の旗印の下、国民が教育を受けて、経済的な身分を手に入れるようになった。

 

 

①    家柄、②学歴、③経済力が格差を作る。

昔、英会話学校のクラスで〇小路さんという人がいて、「まるでお公家さんのような苗字ですね」と私が言って、クラスの皆の失笑を買ったことがある。「当たり前じゃないですか」と皆に言われた。

10年くらい前、ドイツのベルリンでフンボルト大学の前を通り、「そんな大学知らないなぁ」と調べたら、卒業生にマルクス、アインシュタイン、ヘーゲルなどがいた。そんな偉人が出た大学は日本にはない。

米国のお金持ちは桁が違う。比較にもならない。

 

 

無数の見えないヒエラルキー、クラスがこの世にあって、人によってはちょっとしたことで相手を上から目線で見たがる。マウントを取りたがる人がいる。なぜかわからないけど、私はそういうのに鈍感だったし、そういうことに気が付いてからも、どちらかというと「バカだなぁ」と相手のことを思う。公家でなくてもいいし、博士でなくてもいいし、1兆円も持っていなくてもいい。(私の妻は決して他人に何かを自慢をしたりはしないのだけど、そのことを以前言ったら、「そんなことしたら、沽券にかかわる」と言っていた。彼女にはちょっと「武士」みたいなところがある)

 

日本ではかつて「一億総中流」という幻想を抱いている時代があった。それがいつのまにか格差が大きくなり、K字型経済となり、中流がいなくなってしまった。デパートとスーパーの価格差の大きいこと!デパートは次々と閉店となり、スーパーですら苦戦している。洋服で言えば、古着屋が流行っている。

 

 

亡母は、「すべて贅沢にするのは無理だから、一点豪華主義にしなさい」って言っていた。他者との競争、虚栄心とかではなく、自分の好きなこと、自分の心を満たしてくれることに時間とお金を使えばいいのではないか。ヒエラルキーに鈍感なために他者を傷つけてしまったこともあるかもしれないけど、私は鈍感なままでいいと思っている。私は私だ。

 

「順位をつけない幼稚園の運動会」と「偏差値で仕分けする教育」とは全く矛盾している。日本にはもっと価値観の多様性が必要かもしれない。

 

 

とりとめのないブログをここまで読んでくださった方には感謝致します。

頭でまとまっていなくても、考えながら書くっていうのも、頭の体操としては

いいのではないかと思っています。