今年で北陸大谷高校が誕生して60年を迎え、この機会に私は設立までの経緯を辿ってみようと、当時の事をよく知る私の叔父であり、当時学園事務長であった東臻氏が私にと残してくれた資料を基に振り返ってみたいと思います。

 

 そもそもこの話がどこから持ち上がってきたかというと、意外にも教区内の寺方からではありませんでした。東氏の書いた資料に依りますと「当時中学校長を退職した津波倉町の表久右衛門、山口甚作、串町の伊藤清一氏等で粟津中学が南部中学に吸収合併し、空き校舎になっているのを利用し高校設立を計画したが、資金面など自分達だけでは不可能な事業だと判断し、そのまま昭和37年2月本蓮寺大谷護氏に小松教区立高校が出来ないかと持ち掛けたのが始まりである」とあります。

 

 その後、再三再四教区会や六カ寺会などで協議を重ねたが、賛否が分かれ結論に至らず不調に終わったそうです。しかし、丁度その頃、〈粟津地区にある新興宗教団体が高校を作ろうという動きがある〉との情報が流れ、その動きと競うように設立の動きが加速したようです。(私の調査ではそれは偽情報ではありませんでした)

 

 それから情勢は急展開し、その年7月に校名が決定され、11月には異例の早さで田谷充実知事から設立認可を受け、建設用地の取得、建設費、教師求人等が急遽推し進められましたが、言わば見切り発車であったため、その付けがその後借金地獄と化して、重く経営状況の悪化を招くことになりました。設立当時の借入金はその額1億3千万円だったそうで、その60年後の今ならどれだけの額になるのでしょうか。千人近くいた生徒数も8年後には437人までに減少し、借金も膨れ上がり償還不能に陥りました。

 

 そこで、主だった数人が東本願寺に赴き宗務総長に救済の嘆願をしましたが断られ、それでは県立高校に移管してはどうかとか、さらには桂木鉄夫衆議院議員から買収の引き合いの話まであって理事会は混乱を極めたそうです。

 

 そのような訳で設立から10年も経たない内に非常事態となり、前途多難な幕開きとなってしまいました。

 

口癖 ご門徒と寄り添っていこう。