群馬県・八斗島稲荷神社 | 神社に隠れていたモノ

神社に隠れていたモノ

神社の彫刻を見て、何の物語か教えてほしいと思ったことがあり、調べた結果をブログします。タイトル「神社に隠れていたモノ」は覆屋の中にこんな素晴らしい彫刻が隠れていたのかという思いから付けました。

2022年11月10日 群馬県伊勢崎市八斗島町の八斗島稲荷神社に参拝しました。

 

由緒

安土桃山時代の天正年間(1573年1592年)の創立と伝わる。当時、那波城主だった大江顕宗が奥州九戸戦争で討死した。その家臣である境野主水吉澄・五十嵐無兵衛知徳の両人が遺志を奉じて、当国利根川の中州の荒野を開拓、その五穀豊穣の守護神として奉斎されたのが当社の起源。御祭神は、倉稲魂命・大宮姫命・大田命・大己貴命・保食命。明治になり、村社に列し、明治43年(1909年)には神饌幣帛料供進社に指定された。

 

鳥居

 

拝殿

 

玉垣と本殿

 

本殿

 

右面の胴羽目:三顧の礼  
劉備と関羽と張飛が、まだ無名であった諸葛孔明を軍師として迎え入れるため諸葛孔明の庵を訪れ、三度目でようやく会えたという。本来は目上または年上の人が、目下あるいは年下への人へ礼を尽くすことでしたが、現在では礼を尽くして頼みごとをお願いする意味で使われます。

 

右面の脇障子(裏):趙雲救幼主  (胸に赤ん坊を抱いています)
劉備は曹操軍から逃げていたが、長阪坡で追いつかれ、劉備の妻である糜夫人と嫡男の阿斗が戦場に取り残されてしまう。趙雲は一人で戦場を駆け回り、阿斗を抱えた糜夫人を見つけるものの、夫人は足に傷を負っていたため身動きが取れずにいた。二人を救出したい趙雲でしたが、足手まといになることを怖れた糜夫人は、井戸に身を投げます。阿斗を託された趙雲は、阿斗を胸に抱くと、曹操軍の包囲網を単騎脱出したという。

 

背面の胴羽目:趙雲救幼主で趙雲を追う曹操軍

 

左面の脇障子(裏):張飛の長坂橋
曹操は荊州制圧に乗り出し、劉備は慌てて江陵へ撤退を始めます。ところがこれに民間人も従ったため、撤退軍は10万人に膨れ上がり、行軍は遅くなり、ついに長坂で劉備軍は曹操軍に追いつかれます。劉備軍は大混乱に陥り、張飛が殿(しんがり)を務めることになります。張飛は長坂橋で曹操軍を一喝し威嚇します。一人の張飛に対して、曹操軍は攻撃する事が出来きず、張飛は橋を斬り落とし撤退しています。

 

左面の胴羽目:逃げる劉備軍 (左面の脇障子(裏)が「張飛の長坂橋」であることから、張飛の背中にある左面の胴羽目は「曹操軍から劉備軍が逃げている場面」と考えます)

 

 

腰羽目に2つの彫刻

 

右面の腰羽目:二十四孝 楊香
ある日のこと、楊香は父と一緒に山へ薪を取りにいきました。すると、虎が出てきて父を食べようとしました。それを見た楊香は自分の身の危険もかえりみず、急いで虎の首に両手で飛びかかりました。虎は楊香の捨て身にの行動に驚いて逃去り、父は虎に食われることなく、助かったという。

 

右面の腰羽目:二十四孝 孟宗
中国三国時代、呉国に孟宗という親孝行の息子がいました。幼い頃に父を亡くし、高齢の母は重い病にかかっていました。彼は医者から母に新鮮な筍のスープを作るようにと言われました。時は冬、筍は春にならないと生えてきません。なす術もなく竹林に入った彼は、竹にすがって泣き出しました。すると大地が揺れ始め、地面がひび割れたかと思うと、数本の筍が生えてきました。大喜びした孟宗は筍を家に持ち帰り、筍のスープを母に飲ませまると、母の病気が治ったといいます。

 

背面の腰羽目:二十四孝 郭巨
郭巨は貧困のため母と子供を養えなくなり、悩んだすえに「子供は再び得られるが、母は再び得られないのだから、子供を捨てる」と決心し、妻にそう告白した。夫の悩む姿を見続けていた妻も頷きました。郭巨が子供を埋める穴を掘ると、黄金の釜が出てきました。その釜には「孝行な郭巨に天から与える。役人も他人も盗ってはいけない」と書かれた札が入っていました。郭巨は黄金の釜を売り、子供を養いながら更に母に孝行しました。

 

背面の腰羽目:二十四孝 大舜
大舜の母親は早く亡くなり、義母は義弟を可愛がり、大舜に辛く当たった。大舜は自分を愛さない義母や父のために不平も言わず一生懸命に働いた。その徳によって、大舜が田を耕しに行くと、象が現れ田を耕し、鳥が来て田の草を取り、農作業を助けたという。時の皇帝である堯王は大舜の孝行に感心し、娘を娶らせ、後に皇帝の座を大舜に譲ったという。

 

左面の腰羽目:二十四孝 剡子
剡子には、年老いた両親がおり眼を患っていました。鹿の乳が眼の薬になると聞き、剡子は鹿の皮を身にまとい、鹿の群れに紛れて入りましたが、そこへ猟師が本物の鹿と間違えて剡子はを射ようとしました。剡子は「私は本物の鹿ではありません。剡子と言う者で、親ために鹿の格好をしているのです。」と話しました。猟師は驚きながらも非常に感心し、剡子は難を免れました。剡子は鹿の乳を手に入れ、親孝行をする事が出来たという。

 

左面の腰羽目:二十四孝 董永
幼くして母親を失った董永は、残された父親をよく世話する孝行息子であった。やがてその父親も亡くなった。しかし、貧乏で父の葬儀代を出せず、自分の身を売って葬儀代を作り、葬儀をしました。その後、董永は借金を返すために貸主の家に赴く途中、1人の婦人と出会って夫婦となりました。婦人はわずか10日の間に百疋の絹を織り上げ、夫の借金をたちまち返済してしまいました。婦人は借金を返し終えると、自分が天の織女で、董永の深い孝養ぶりに感心した天帝の命によって下界に降り、董永の借金の返却を助けるよう言われたことを告げ、天に帰っていったという。

 

コメント:背面の胴羽目と左面の胴羽目は似ているが、背面の胴羽目は剣を抜いて追っている兵士で、左面の胴羽目はのんびりと歩いている兵士という違いがある。個人的には左面の胴羽目はもっと逃げている感じを出して欲しかった。

 

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