埼玉県・八幡神社 | 神社に隠れていたモノ

神社に隠れていたモノ

神社の彫刻を見て、何の物語か教えてほしいと思ったことがあり、調べた結果をブログします。タイトル「神社に隠れていたモノ」は覆屋の中にこんな素晴らしい彫刻が隠れていたのかという思いから付けました。

2022年10月9日 埼玉県東秩父村皆谷の八幡神社に参拝しました。

 

由緒

『新編武蔵風土記稿』には、「小名牧野内にあり、本山修験、明王院配下、金竜房持、除地七畝、社頭老杉茂生す、神体白幣、本地弥陀木の立像、文和二年(1353)の勧請にて、村の総鎮守とす、例祭八月十五日又は九月十五日、当村明王院当時支配せり」と載せる。 明治3年(1870)に村社となり、現在も本殿(平成13年村指定有形文化財彫刻)には白幣を祀り、十一面観音像を安置している。

 

鳥居

 

拝殿

 

中備:龍

 

覆屋   見る隙間が少し高い位置にあります。そのためなのか瓶ケースが台としておいてありました。

 

右面の胴羽目:梅妻鶴子
林和靖は、中国北宋の詩人で、生涯官に仕えず、西湖のほとり孤山に庵を編んで自適の生活を送った人物として知られる。妻のかわりに梅の木を、子のかわりに鶴を愛でていたという。

 

背面の胴羽目:応神天皇誕生
神功皇后は仲哀天皇の妃。仲哀天皇が熊襲征伐で敗北し戦死。その後、熊襲征伐を取り止め、朝鮮半島に出兵(三韓征伐)し服属させたという。その時、神功皇后は身籠っており、お腹に石をあててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産したと伝えられている。

 

左面の胴羽目:韓信の股くぐり
韓信が若い頃、ならず者に「お前が強いのなら、その剣で俺を刺してみろ。できないなら、俺の股をくぐれ」と言いがかりをつけられ、屈辱に耐えてその股をくぐったという。もし韓信がならず者を殺してた場合、お尋ね者となり一生を台無しにしていた。本当に叶えたい夢のために、一時の屈辱を耐え忍のんだという故事。その後、韓信は前漢の初代皇帝となる劉邦の元で数々の戦いに勝利し、国士無双と呼ばれるまでの武将になった。

 

右面の脇障子:頼朝の伏木隠れ (頼朝が木のウロに隠れて、八幡神社の使いである鳩が飛んでいる)
1180年源頼朝は源氏再興のため挙兵。石橋山に布陣するが、平家方は三千余騎、頼朝方はわずか三百騎であり、翌朝には平氏軍に敗れ、土肥杉山の伏木(倒木)のうろの中に隠れた。大庭景親らの平家軍は頼朝を追って山狩りをし、伏木を捜索することになる。梶原景時は伏木の中に入り頼朝を見つけるが、「ここに人はいない」と景親に報告する。景親は納得せず、自ら伏木の中に入ろうとするが、景時は「それがしを疑うおつもりか」と景親の前に立ちはだかる。すると、突然2羽の鳩(鳩は源氏の氏神である八幡神の使い)が飛び出しました。景親は、鳩が住み着いているほどならば人はいないのだろうと考えながらも、斧を取り寄せて伏木を叩き割ろうと言い出します。すると、晴れていた空がにわかに曇り激しい雷雨となり、景親は捜索を断念したという。後に頼朝は鎌倉幕府を開き、梶原景時を側近として重用した。

 

左面の脇障子:大庭景親と梶原景時  (右面の脇障子からの推測)

 

右面の腰羽目:不明 田植え? (背面の腰羽目と似ているが、右面の腰羽目は蓑を着ている。何の作業?) (2022.11.30修正)

 

背面の腰羽目:田植え

 

左面の腰羽目:不明 (2022.11.27修正)

左面の腰羽目:鳴子(鳥おどし)で鳥や獣から農作物を守っている

 

参考として、苗代(絵本通宝志 巻之一より)

 

浜床:鴨

 

コメント:山奥にある神社。八幡神社繋がりなのか、珍しい「頼朝の伏木隠れ」の彫刻が脇障子にあったことに驚きました。

 

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