埼玉県・稲乃比売神社 | 神社に隠れていたモノ

神社に隠れていたモノ

神社の彫刻を見て、何の物語か教えてほしいと思ったことがあり、調べた結果をブログします。タイトル「神社に隠れていたモノ」は覆屋の中にこんな素晴らしい彫刻が隠れていたのかという思いから付けました。

2022年10月8日 埼玉県寄居町鉢形の稲乃比売神社に参拝しました。

 

由緒

稲乃比売神社の創建年代等は不詳ながら、当地は男衾郡八郷の内の「榎津郷」に比定され、また渡来系氏族「壬生吉志」氏の在所だったことから、「三代実録」の貞観17年(875)条に記載されている稲聚(いなつめ)神が祀られたのではないかと推定されています。壬生吉志氏は、寺内廃寺(江南町)の造営や武蔵国分寺の七重塔再建など、古代武蔵の有力豪族です。また、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている「稲乃売神社」に比定されています。その後鎌倉期以降についての由緒は不詳ながら、江戸期には氷川社と称し、木持村の鎮守として祀られていましたが、明治維新後の王政復古を機会に社号を稲乃比売神社と改称しています。

 

 

鳥居

 

拝殿  覆屋も兼ねています

 

 

本殿

 

右面の胴羽目:中国二十四孝 大舜
大舜の母親は早く亡くなり、義母は義弟を可愛がり、大舜に辛く当たった。大舜は自分を愛さない義母や父のために不平も言わず一生懸命に働いた。その徳によって、大舜が田を耕しに行くと、象が現れ田を耕し、鳥が来て田の草を取り、農作業を助けたという。時の皇帝である堯王は大舜の孝行に感心し、娘を娶らせ、後に皇帝の座を大舜に譲ったという。

 

背面の胴羽目:中国二十四孝 楊香、剡子  (2つの物語がひとつの胴羽目に彫られています)

 

中国二十四孝 剡子
剡子には、年老いた両親がおり眼を患っていました。鹿の乳が眼の薬になると聞き、剡子は鹿の皮を身にまとい、鹿の群れに紛れて入りましたが、そこへ猟師が本物の鹿と間違えて剡子はを射ようとしました。剡子は「私は本物の鹿ではありません。剡子と言う者で、親ために鹿の格好をしているのです。」と話しました。猟師は驚きながらも非常に感心し、剡子は難を免れました。剡子は鹿の乳を手に入れ、親孝行をする事が出来たという。

 

楊香
ある日のこと、楊香は父と一緒に山へ薪を取りにいきました。すると、虎が出てきて父を食べようとしました。それを見た楊香は自分の身の危険もかえりみず、急いで虎の首に両手で飛びかかりました。虎は楊香の捨て身にの行動に驚いて逃去り、父は虎に食われることなく、助かったという。

 

左面の胴羽目:中国二十四孝 郭巨
郭巨は貧困のため母と子供を養えなくなり、悩んだすえに「子供は再び得られるが、母は再び得られないのだから、子供を捨てる」と決心し、妻にそう告白した。夫の悩む姿を見続けていた妻も頷きました。郭巨が子供を埋める穴を掘ると、黄金の釜が出てきました。その釜には「孝行な郭巨に天から与える。役人も他人も盗ってはいけない」と書かれた札が入っていました。郭巨は黄金の釜を売り、子供を養いながら更に母に孝行しました。

 

右面の脇障子:中国二十四孝 孟宗
中国三国時代、呉国に孟宗という親孝行の息子がいました。幼い頃に父を亡くし、高齢の母は重い病にかかっていました。彼は医者から母に新鮮な筍のスープを作るようにと言われました。時は冬、筍は春にならないと生えてきません。なす術もなく竹林に入った彼は、竹にすがって泣き出しました。すると大地が揺れ始め、地面がひび割れたかと思うと、数本の筍が生えてきました。大喜びした孟宗は筍を家に持ち帰り、筍のスープを母に飲ませまると、母の病気が治ったといいます。

 

左面の脇障子:中国二十四孝 王祥
晋国に非常に孝行な王祥という青年がいました。継母が寒中に生魚を食べたいと言われ、王祥は池で魚を取りに行きましたが、池が凍っていました。王祥は衣を脱いで、氷の上に臥し、身体の温もりで氷を割ろうとしました。天はその孝行に感じ、厚い氷を割り二匹の鯉を出させました。王祥は喜び、継母に鯉を与えたという。

 

本殿の中備:龍

 

木鼻:獅子、獏  持送:波千鳥

 

手挟:鶴

 

コメント:小さな神社です。二十四孝の素晴らしい彫刻を間近で見れました。

 

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