埼玉県・宝登山神社 | 神社に隠れていたモノ

神社に隠れていたモノ

神社の彫刻を見て、何の物語か教えてほしいと思ったことがあり、調べた結果をブログします。タイトル「神社に隠れていたモノ」は覆屋の中にこんな素晴らしい彫刻が隠れていたのかという思いから付けました。

2022年2月3日 埼玉県秩父郡長瀞町長瀞の宝登山神社に参拝しました。

 

由緒

日本武尊が東国平定後に秩父の地にお入りになり、秀麗な山容に魅了されミソギを済ませ山頂へと向かいます。しかし突然の山火事に進退が極ったその時、山犬たちが出現し瞬く間に火を消し止め、尊一行を頂上まで案内すると山犬たちは姿を隠してしまいました。この不思議に尊は山の神が御眷属の大口真神たる山犬をお遣わしになり、自分たちを救ってくださったとお悟りになり、山頂に神籬を設え尊の祖先にあたる第一代神武天皇・山の神の大山祇神・火の神火産霊神を祀り、山の名を「火を止める山」と表し「火止山=ほどさん」と定めました。このことが寳登山神社の始りと伝えられています。

 

二乃鳥居

 

拝殿
拝殿の彫刻は川原明戸村(現在の熊谷市大麻生)の彫刻師、飯田岩次郎の代表的作品。

 

懸魚:二羽の鶴  唐破風下の彫刻に3頭の龍(上側に1頭の龍、中備に2頭の龍)。

 

額のある中央部分の彫刻。左側に青龍と白虎、右側に朱雀と玄武。

 

欄間に彫刻があります

 

[拝殿の右面彫刻]
中国二十四孝 唐夫人
唐夫人は、姑の長孫夫人によく仕え、姑の髪を毎朝整え、歯が無い姑のために自分の乳を与えるなどして尽くしました。ある時、姑は死期を悟り、一族を集めて「唐夫人の恩に報いることができず、今死のうとしているのが心残りだ。唐夫人孝行を真似れば、必ず繁栄するでしょう」と言いました。この話は「乳姑不怠」として知られるようになり、姑に孝行なのは珍しいと、皆褒め称えたと言います。

 

中国二十四孝 大舜
大舜の母親は早く亡くなり、義母は義弟を可愛がり、大舜に辛く当たった。大舜は自分を愛さない義母や父のために不平も言わず一生懸命に働いた。その徳によって、大舜が田を耕しに行くと、象が現れ田を耕し、鳥が来て田の草を取り、農作業を助けたという。時の皇帝である堯王は大舜の孝行に感心し、娘を娶らせ、後に皇帝の座を大舜に譲ったという。

 

中国二十四孝 王祥
晋国に非常に孝行な王祥という青年がいました。継母が寒中に生魚を食べたいと言えば、王祥は池で魚を取ろうとしましたが、池が凍っていました。王祥は衣を脱いで、氷の上に臥し、身体の温もりで氷を割ろうとしました。天はその孝行に感じ、厚い氷を割り二匹の鯉を出させました。王祥は喜び、母に鯉を与えたという。

 

中国二十四孝 郭巨
郭巨は貧困のため母と子供を養えなくなり、悩んだすえに「子供は再び得られるが、母は再び得られないのだから、子供を捨てる」と決心し、妻にそう告白した。夫の悩む姿を見続けていた妻も頷きました。郭巨が子供を埋める穴を掘ると、黄金の釜が出てきました。その釜には「孝行な郭巨に天から与える。役人も他人も盗ってはいけない」と書かれた札が入っていました。郭巨は黄金の釜を売り、子供を養いながら更に母に孝行しました。

 

[拝殿の左面彫刻]
中国二十四孝 剡子
剡子には、年老いた両親がおり眼を患っていました。鹿の乳が眼の薬になると聞き、剡子は鹿の皮を身にまとい、鹿の群れに紛れて入りましたが、そこへ猟師が本物の鹿と間違えて剡子はを射ようとしました。剡子は「私は本物の鹿ではありません。剡子と言う者で、親ために鹿の格好をしているのです。」と話しました。猟師は驚きながらも非常に感心し、剡子は難を免れました。剡子は鹿の乳を手に入れ、親孝行をする事が出来たという。

 

中国二十四孝 仲由
姓は仲、名は由、字は子路。仲由が若い頃、家は貧しく、あかざの実、豆の葉を食べ飢えをしのいでいた。そして、仲由は親のため遠く離れた所まで働きに行っては米を手に入れ、背負って帰ってきた。親が亡くなった後、仲由は楚王に取り立てられ高官となり、贅沢な暮らしが出来るようになった。しかし、仲由はこれを喜びもせず、昔の様にあかざの実を食べ、「親孝行したくても、すでに父母はいない」と嘆いたという。のちに仲由は、孔門十哲の一人とされるまでになりました。

 

中国二十四孝 楊香
ある日のこと、楊香は父と一緒に山へ薪を取りにいきました。すると、虎が出てきて父を食べようとしました。それを見た楊香は自分の身の危険もかえりみず、急いで虎の首に両手で飛びかかりました。虎は楊香の捨て身にの行動に驚いて逃去り、父は虎に食われることなく、助かったということです。

 

中国二十四孝 孟宗
中国三国時代、呉国に孟宗という親孝行の息子がいました。幼い頃に父を亡くし、高齢の母は重い病にかかっていました。彼は医者から母に新鮮な筍のスープを作るようにと言われました。時は冬、筍は春にならないと生えてきません。なす術もなく竹林に入った彼は、竹にすがって泣き出しました。すると大地が揺れ始め、地面がひび割れたかと思うと、数本の筍が生えてきました。大喜びした孟宗は筍を家に持ち帰り、筍のスープを母に飲ませまると、母の病気が治ったといいます。

 

右面の脇障子:赤兎馬を駆る関羽

 

左面の脇障子:趙雲救幼主
劉備は曹操軍から逃げていたが、長阪坡で追いつかれ、劉備の妻である糜夫人と嫡男の阿斗が戦場に取り残されてしまう。趙雲は一人で戦場を駆け回り、阿斗を抱えた糜夫人を見つけるものの、夫人は足に傷を負っていたため身動きが取れずにいた。二人を救出したい趙雲でしたが、足手まといになることを怖れた糜夫人は、井戸に身を投げます。阿斗を託された趙雲は、阿斗を胸に抱くと、曹操軍の包囲網を単騎脱出したという。

左面の脇障子の裏側:子供を抱いています

 

本殿右面の脇障子:東方朔と西王母
西王母は中国の西方にあるという崑崙山に住む仙女。仙女の世界の女王的存在る。不老不死の薬をもつ神仙といわれ、三千年に一度実る桃(蟠桃)の木を持っており、その実を食べると長寿を得るとされています。
東方朔は中国前漢時代の文人。仙術を身に付け武帝に仕えたという。西王母のもとから桃を盗んで食べたため、八百歳もの長寿を得たという。

 

本殿左面の脇障子:黄石公と張良
漢の高祖に仕える張良は夢の中で老翁と出会い、兵法を伝授してもらう約束をする。夢の中で約束した五日後に橋のほとりに行くと、老翁は既に来ており、「人に物を教えて貰おうというのに、先生より遅く来るとは何事だ」と咎め、また五日後に来いと言い去っていく。五日後、張良は正装をし早暁に行くと威儀を正した老翁が馬に乗って現れた。そして自らを黄石公と名乗り、履いていた沓を川へ落とした。張良は急いで川に飛び込んだが、大蛇が現れ威嚇し沓を取られる。張良はすばやく剣を抜き立ち向かい大蛇から沓を奪い返した。黄石公は張良の働きを認め、兵法の奥義を伝授しました。

 

コメント:この神社は以前にも来ていて、初めて唐夫人の彫刻を見た時、「何なの?」と思っていました。カラーなので特に目立ちます。彫刻の物語を調べるようになって、歯の悪いおばあさんに乳を与えていると分かりました。

 

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