2022年4月7日 埼玉県秩父市下影森の琴平神社に参拝しました。(当社へは、昭和電工秩父工場受付前を通って参詣します)
由緒
下影森琴平神社の創建年代等は不詳ながら、天正5年(1577)銘の建碑が残されていることから、安土桃山時代には祀られていたといいます。当地は、斎所山の麓にあたり、奥の院の地で武甲山を神と崇めて、水乞いの神として琴平神を勧請したと考えられ、熊野修験者が当社の創始に関わっている模様です。明治維新後、琴平神社と改称、明治24年奥の院地から、当地へ遷座、明治40年には、字滝ノ入の諏訪社、字内出前の八幡社、字上大沼の諏訪社、字大沼入の諏訪社を合祀しています。
鳥居
長い階段があります。
相撲の土俵 毎年10月の例大祭で地元の子供達による奉納相撲が行われます
拝殿
八坂神社(境内社)
本殿
右面の胴羽目:司馬温公の甕割り
温公は司馬光といい、北宋の政治家。「資治通鑑」を書いた学者としても知られています。子供の頃、大きな水瓶に落ちた友達を助けるために、石で瓶を割りました。大切な瓶を割ったので叱られることを覚悟していましたが、父親は温公をほめて、改めて命の大切さを教えたと言います。
左面の胴羽目:須佐之男命の八岐大蛇退治
八岐大蛇は毎年やって来て娘をひとり食べていた。今年もその時期になり櫛名田比売が生贄になるという。須佐之男命は八岐大蛇を退治するため、櫛名田比売の両親(足名椎、手名椎)に強い酒を8つ用意させ、八岐大蛇がくるのを待った。やがて八岐大蛇が現れ、門の前に置かれた酒を飲み始めた。そして、酔いが回り八岐大蛇が眠ったところで、須佐之男命は八岐大蛇を切りつけ退治した。大蛇の尾からは一振りの剣が現れ、須佐之男命はそれを「天叢雲の剣」と名付け、姉である天照大神へと献上した。
背面の胴羽目は無し
左面と右面の脇障子:黄石公と張良
漢の高祖に仕える張良は夢の中で老翁と出会い、兵法を伝授してもらう約束をする。夢の中で約束した五日後に橋のほとりに行くと、老翁は既に来ており、「人に物を教えて貰おうというのに、先生より遅く来るとは何事だ」と咎め、また五日後に来いと言い去っていく。五日後、張良は正装をし早暁に行くと威儀を正した老翁が馬に乗って現れた。そして自らを黄石公と名乗り、履いていた沓を川へ落とした。張良は急いで川に飛び込んだが、大蛇が現れ威嚇し沓を取られる。張良はすばやく剣を抜き立ち向かい大蛇から沓を奪い返した。黄石公は張良の働きを認め、兵法の奥義を伝授しました。
右面の脇障子:黄石公
左面の脇障子:張良
正面の扉脇に昇龍・降龍
コメント:小さい境内社ながら、要所を押さえたといった感じの素晴らしい彫刻がありました。