2022年7月10日 山梨県南巨摩郡富士川町高下の高下諏訪神社に参拝しました。
由緒
鰐口が県指定文化財になっています。鰐口とは神社やお寺の正面の軒先にかけられた仏教や神道で用いる打楽器のことで、その鰐口に、「貞和5(1349)年12月22日□正河 杣保黒沢観音堂鰐口」という銘文が入っていることから、創立はそれ以前と考えられる。鎮座地である仙洞田ゆかりの姫を合祀しているため、一般には姫宮神社と呼ばれて親しまれている。仙洞田地区の氏神。本殿には、伊豆松崎の名工である小沢半兵衛の彫刻が施されている。
覆屋 (内部は暗く、彫刻は肉眼では見づらい)
本殿
右面の胴羽目に2枚の彫刻がある。
右面の胴羽目:中国二十四孝 郭巨
郭巨は貧困のため母と子供を養えなくなり、悩んだすえに「子供は再び得られるが、母は再び得られないのだから、子供を捨てる」と決心し、妻にそう告白した。夫の悩む姿を見続けていた妻も頷きました。郭巨が子供を埋める穴を掘ると、黄金の釜が出てきました。その釜には「孝行な郭巨に天から与える。役人も他人も盗ってはいけない」と書かれた札が入っていました。郭巨は黄金の釜を売り、子供を養いながら更に母に孝行しました。
右面の胴羽目:中国二十四孝 董永
幼くして母親を失った董永は、残された父親をよく世話する孝行息子であった。やがてその父親も亡くなった。しかし、貧乏で父の葬儀代を出せず、自分の身を売って葬儀代を作り、葬儀をしました。その後、董永は借金を返すために貸主の家に赴く途中、1人の婦人と出会って夫婦となりました。婦人はわずか10日の間に百疋の絹を織り上げ、夫の借金をたちまち返済してしまいました。婦人は借金を返し終えると、自分が天の織女で、董永の深い孝養ぶりに感心した天帝の命によって下界に降り、董永の借金の返却を助けるよう言われたことを告げ、天に帰っていったという。
左面の胴羽目:三顧の礼
劉備と関羽と張飛が、まだ無名であった諸葛孔明を軍師として迎え入れるため諸葛孔明の庵を訪れ、三度目でようやく会えたという。本来は目上または年上の人が、目下あるいは年下への人へ礼を尽くすことでしたが、現在では礼を尽くして頼みごとをお願いする意味で使われます。
背面の胴羽目は無し
右面の脇障子:中国二十四孝 蔡順
飢饉があり食べ物が乏しかったので、蔡順は桑の実を拾いに行きました。熟したものとまだ熟していないものを分けていたところ、盗賊たちがやって来ました。盗賊たちが「なぜ桑の実を分けているのか」と尋ねたところ、「この熟したものは母に与え、まだ熟していないものは自分が食べようと思っているのです」と答えた。盗賊たちは彼の孝行を感じて、米と牛の足を与えて立ち去りました。
左面の脇障子:中国二十四孝 朱壽昌
朱壽昌が7歳の時に朱寿昌の父親と母親が別れました。そのため、朱寿昌は母のことを良く覚えていないと嘆いていました。そして会えないまま50年が過ぎました。ある時、役人となっていた朱寿昌は、安定した役人の仕事を辞め、妻子までも捨てて、自分の血でお経を書き、「母に会わせたまえ」と天へ祈りました。すると、秦に母がいると告げられ、遂に母に会えたという。
腰羽目に2枚の彫刻がある。
右面の腰羽目:(上側)獅子 (下側)唐子遊び--踊り
右面の腰羽目:(上側)獅子 (下側)唐子遊び--闘犬
背面の腰羽目:(上側)鯉 (下側)不明
背面の腰羽目の下側が欠けている。
左面の腰羽目:(上側)獅子 (下側)不明
左面の腰羽目:(上側)獅子 (下側)藤原兼房 [2024.9.6修正]
兼房は長年、和歌が好きだったが、歌の出来は良くなかったので、常に人麻呂のことを考えていた。ある晩の夜に夢で、梅の花が雪のように降る中に、紙と筆をもち和歌を構想中の人麻呂の姿を見た。目覚めてから絵師にこの有り様を語って、絵を描かせた。その絵を日夜拝んでいたところ、その霊験なのか、和歌が上達したという。
参考として、藤原兼房(人麿夢想説話) 出典:鶯宿梅
* 烏帽子や着物、寝ている姿勢からの推測。
中備:龍
松を模した海老虹梁
浜床:波に鳥