水曜レディースデイなので
昨日急きょ長女と行ってきました(*^▽^*)
いやもうわかりやすい!
それでいてなんと感動的なお話か!
向井君の、
ふだんの知的で クールで
甘い笑顔のイメージが
全部抜け落ちた、
渾身の演技に拍手でした
カンボジアは
ベトナム戦争のあおりを受けて
内戦で国内がガタガタになった上に
ポルポト政権時の大量虐殺で(200万人だって。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。)
国民が皆 本来悲壮感漂ってるはずなのに
なんとみんな目がキラキラしてる!
国をよくしようと頑張りだしてる!
特に子どもたちの、
あの純な瞳と笑顔は
観る者の心を打つこと間違いなしです
特に誰のファンってことなくても
みんなに観てもらいたいな
色々感じて欲しいなって
思わされた映画です
以下はカンボジアの簡単な歴史です。(Wikipediaより)
詳細は「カンボジアの歴史」を参照
アンコールワットはアンコール遺跡の一つで、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている。
ノロドム・シハヌーク国王の下で1949年にフランスから独立後、ベトナム戦争が始まると国内は不安定化し、アメリカと南北ベトナムが介入し内戦状態となった。1968年には米軍の空爆が始まり、1970年には親米派のロン・ノル将軍のクーデターによりシハヌーク国王が追放され、クメール共和国が樹立された。内戦は一層激化し、空爆がカンボジア全域に拡大され数十万人が犠牲となると、クメール・ルージュ勢力の伸張をまねいた。1975年、極端な共産主義を掲げるクメール・ルージュの独裁者ポル・ポト政権が成立。1979年までに、旱魃、飢餓、虐殺などで200万人以上とも言われる死者が出た。 思想改革という名の元で、虐殺が行われた。教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、良識ある国民のほとんどが捕らえられて強制収容所に送られた。生きてそこから出られたのはほんのわずかな人数である。 それ故に明確な犠牲者数は得られず今でも、国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘される。(内戦前の最後の国勢調査が1962年であり、それ以後の正確な人口動態がつかめておらず、死者の諸推計に大きく開きが出ている)。1979年にベトナム軍が侵攻しポル・ポト政権を打倒。その後ポル・ポト派含む三派とベトナム、ヘン・サムリン派との間で内戦が続いた。1989年にベトナム軍が撤退、1991年10月にパリ和平協定が結ばれた。1992年3月から国際連合カンボジア暫定統治機構による統治が開始され、1993年には国連監視の下で民主選挙が実施された。この時の国連の代表が日本の明石康である。9月に制憲議会が新憲法を発布し立憲君主制を採択、ノロドム・シハヌークが国王に再即位した。
2009年12月18日、カンボジア特別法廷[4]は、キュー・サムファン元国家幹部会議長を大虐殺(ジェノサイド)罪でも訴追することを通知した。法廷は、16日までにヌオン・チア元人民代表議会議長、イエン・サリ元副首相の二人にも大虐殺罪適用を決定している。[5]
昨日急きょ長女と行ってきました(*^▽^*)
いやもうわかりやすい!
それでいてなんと感動的なお話か!
向井君の、
ふだんの知的で クールで
甘い笑顔のイメージが
全部抜け落ちた、
渾身の演技に拍手でした

カンボジアは
ベトナム戦争のあおりを受けて
内戦で国内がガタガタになった上に
ポルポト政権時の大量虐殺で(200万人だって。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。)
国民が皆 本来悲壮感漂ってるはずなのに
なんとみんな目がキラキラしてる!
国をよくしようと頑張りだしてる!
特に子どもたちの、
あの純な瞳と笑顔は
観る者の心を打つこと間違いなしです

特に誰のファンってことなくても
みんなに観てもらいたいな

色々感じて欲しいなって
思わされた映画です

以下はカンボジアの簡単な歴史です。(Wikipediaより)詳細は「カンボジアの歴史」を参照
アンコールワットはアンコール遺跡の一つで、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている。
ノロドム・シハヌーク国王の下で1949年にフランスから独立後、ベトナム戦争が始まると国内は不安定化し、アメリカと南北ベトナムが介入し内戦状態となった。1968年には米軍の空爆が始まり、1970年には親米派のロン・ノル将軍のクーデターによりシハヌーク国王が追放され、クメール共和国が樹立された。内戦は一層激化し、空爆がカンボジア全域に拡大され数十万人が犠牲となると、クメール・ルージュ勢力の伸張をまねいた。1975年、極端な共産主義を掲げるクメール・ルージュの独裁者ポル・ポト政権が成立。1979年までに、旱魃、飢餓、虐殺などで200万人以上とも言われる死者が出た。 思想改革という名の元で、虐殺が行われた。教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、良識ある国民のほとんどが捕らえられて強制収容所に送られた。生きてそこから出られたのはほんのわずかな人数である。 それ故に明確な犠牲者数は得られず今でも、国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘される。(内戦前の最後の国勢調査が1962年であり、それ以後の正確な人口動態がつかめておらず、死者の諸推計に大きく開きが出ている)。1979年にベトナム軍が侵攻しポル・ポト政権を打倒。その後ポル・ポト派含む三派とベトナム、ヘン・サムリン派との間で内戦が続いた。1989年にベトナム軍が撤退、1991年10月にパリ和平協定が結ばれた。1992年3月から国際連合カンボジア暫定統治機構による統治が開始され、1993年には国連監視の下で民主選挙が実施された。この時の国連の代表が日本の明石康である。9月に制憲議会が新憲法を発布し立憲君主制を採択、ノロドム・シハヌークが国王に再即位した。
2009年12月18日、カンボジア特別法廷[4]は、キュー・サムファン元国家幹部会議長を大虐殺(ジェノサイド)罪でも訴追することを通知した。法廷は、16日までにヌオン・チア元人民代表議会議長、イエン・サリ元副首相の二人にも大虐殺罪適用を決定している。[5]