たったひとつのお弁当(子の立場から) | 北林ちかこのブログ

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並木道を優しい風が通り抜けるように、自然体で生きたい

こんばんは。

 

もうお気づきの方もいるでしょうが、

「たったひとつのお弁当」は、

昨年の記事の再掲です。

この動画を見て、

お母さんの立場、子の立場、

ダンシャリアンの立場から、

感想を述べました。サゲサゲ↓
HANDMADE HOMETOWN

 

今回は、お弁当を作ってもらった
子どもの立場で書いた記事です。
 

中学・高校とお弁当でした。

どんなお弁当だったか…、
動画の若者たちと違い、
あまり覚えていません。
(ま・・・、あの子たちは20代だしね。
年季というか、タイムラグが違うわよ。)

中2の秋までは、
母が毎朝作ってくれました。

ですが、その頃、父が亡くなり、
生活が一変。

温暖な九州から、金沢に移り、
母は仕事を始めました。

特別な技能もない、
40歳の女性が就職するには、
とても厳しい時代でした。

その時、子どもは中2と小2。

やるしかない、

だけど慣れない仕事と生活に、
母は神経をすり減らしていきました。

子どもにかかわるゆとりも無くします。

『自分の弁当は、自分で作りなさい。』

ある日、突然、そういわれました。

それまで、料理なんてほとんどしたことがなく、
何をどうしたらいいのか、分かりません。

見よう見まねで、ご飯を詰めて、
冷蔵庫にあるモノを、
寄せ集めただけのお弁当。

前の日に、材料を買うように言われても、
中学生になかなかそんなことはできません。

生の刻みキャベツとスライスハム。

それだけの日もありました。

賑やかなおかずの友達のお弁当。

…自分の地味なお弁当が、
ちょっと恥ずかしかったかな。
(もう忘れたけど)
 

高校生になると、
県外で下宿生活を始めます。

ここでも、お弁当は自分で作りました。

アメリカ人のお宅だったため、
お昼はいつもサンドウィッチでした。

こんな感じで、私はお弁当に、
特別な想い出はありません。

ところが、大学を終えて、
金沢で働き始めてから、
OLになった私に、
母が時々お弁当を作ってくれました。

その頃には、生活も安定して、
心と時間にゆとりができたのでしょう。

・・・だけど、別に私は、
感動も感謝もしませんでした。

今から思えば、申し訳ないけれど、
もう多感な10代ではありません。

1食分、食費が浮いてラッキー、
…くらいに思っていました。

ある日、母が言いました。

「貴女がお母さんになった時、
お弁当の彩りや詰め方を、
何も知らないのはかわいそうだと思って。

その時、思い出してくれれば、いいのよ。」
 

実際に私がお弁当を作り出してから、
母のお弁当を意識したことは、ありません。

もう毎日、慌ただしすぎて、
それどころではなかったのでまったり

ですが、今なら、分かります。

母がどんな気持ちで、
成人した私に、お弁当を作ってくれたのか。

生活そのものが、あまりに大変で、
まだ子どもだった私に、
お弁当を作ってあげられなかったこと、
きっと悔いていたんでしょうね。

お弁当だけではなく、それに代表される、
子どもとのかかわりを削ってしまったことを、
どこかで哀しく思っていたのかも。

無理をしてでも、作ってあげればよかった…。

過ぎ去った時間は、二度と戻ってこない…と。

あの頃は、私も分からなかったけれど、
今なら、そんな気持ちも分かるし、
受け入れることもできます。

そして、母は母なりに、
必死だったんだな…ということも。

愛していないわけじゃない、
ただ余裕がなかっただけなんだな…ということも。

こんなことをすんなり受け入れることが可能になるなら、
歳を重ねるのも、悪くないですね。

30年近い時が経っちゃったけど、
あの時のお弁当、ありがとう…。
 

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