記憶はアウトプットしないといかん。
プロタゴラス 相対主義
ソクラテス 絶対主義
デカルト 公理ー方法としてのコギト方法的懐疑
ヒューム 懐疑論~つまりイギリス経験論 経験のための暫定的な個体=私 複合概念の中で絶対的な因果の否定
カント 経験論の固有種ごとの形式、種ごとの真理、モノ自体への永久接近
ヘーゲル 弁証法、アウフヘーベンの進歩への夢
キルケゴール 実存主義の私が生きるための真理
サルトル アンガージュマン・自由の刑の中の歴史、参加、共産主義
レヴィストロース 構造主義の眼差しが見た西洋以外のゴールへの歴史
デューイ プラグマティズムー実用主義ー本質から効果へ。
デリダ 音声中心主義から読むことへ
レヴィナス 他者、それは殺意と可能性とを兼ね備えた不愉快な外部
人それぞれ、というのがまあそりゃそうだという訳なのだが、プロタゴラスが真理は相対的なもんだと2500年前に既に言葉にしているわけで、おくれてる、とかいうレベルでは無く遅れてるよね。歴史的に過ぎてるんだよそこに着地するのは。そこを飛び立って思考している時代が、もう2500年間続いてる。
ソクラテスの質問は相対主義的な詭弁に対する策だった。それにおいて有効であり、ある意味でそれはただの攻撃でしかない。彼は謙虚さを誇っていたのではなく、知らないことで、知りたい、という欲望を持つこと、これが無知の知である。相対と絶対の、二つの立場。
真理への道① 絶対の為の公理=コギト
中世、キリストの支配を経て、ルネッサンスや宗教革命のち近代へ向かう17世紀に、数学者であるがゆえ哲学に定理や公理を使えないだろうかと考えたデカルトがいた。デカルトにおけるコギトエルゴスムとは、公理となる第一原理を設定する為のあらゆる物への懐疑であった。数式における公理と対をなす真理の為の懐疑。悪意のある悪霊や、夢における論理などを設定して徹底的にやった上で現れた唯一の公理たる心理が「疑ってる俺は、確実に在るってことでいんじゃね?」である。そして、デカルトは、俺は居るし、ていうことは認識してるし、認識してるから存在してるし、つまるところ俺を作ったの神だし、だから正しいし、とか言い出すすごい奴。公理は作ったけど、その公理から方程式は作れなかった。
真理への道② 個体は経験の母体である。ヒューム、経験論
デカルト批判から生まれたイギリス経験論、それを完成させたヒューム。デカルトの「我」にたいして、私なんてものは知覚の集まりであって、その知覚=経験の継続による擬似的な感覚であると言った。
ヒュームは唯一、神に対しても懐疑した。神という完全は経験に由来しない唯一のものだというザラな経験主義とは違い、神を「複合概念」とよぶーー過去の経験の組み合わせからできた、現実には存在しない概念。
科学にもこの懐疑を向ける。「火は熱い」は経験であるが、火そのものと、熱さそのものに因果関係がつけられないのである。ヒュームの恐ろしさは、科学における因果律まで懐疑し尽くしたところである。
補足、このヒュームによって完成される経験論、自我、神、科学への懐疑による西洋哲学経験論は仏陀が既に、その2500年前に通過していたりする。
真理への道③ 「経験」の「形式」カント、モノ自体と差異
カント、ヒュームの経験論に対し、経験はある「共通の形式」の中で行われると言う。時間的、空間的。経験の形式の範囲内において、「人間という種」にとっての真理は見つけられる。我々には、同じ形式が備わっている、或いは、経験は同じ形式で行われる。よって、生物によって、形式というものは違ってしかるべきである、経験における形式。
カントにおける「人間はモノ自体には到達できない」とは、生物固有の形式によって経験される前の「本当の世界」には到達できない、ということ。モノ自体への永久接近。
真理とは人間によって規定されるもの。真理があり、あらゆる生物に向かうのではなく、あらゆる生物にとっての現実、そして真理がある。カントの登場により哲学者は普遍的真理を追い求め、人知を超えた真理を求める立場から、人間にとっての真理、人類という形式の中で成立するものへ転機した。
真理への道④ ゴールまでの方法。ヘーゲル、弁証法、アウフヘーベン。
ヘーゲルによる弁証法の導入。アウフヘーベンによって真理へ向かえるという方法の発見。ちなみにヘーゲルが大学生の時にフランス革命が起きている、王政国家きら民主国家への転換期。
真理への道⑤ 弁証法をアウフヘーベンする。キルケゴール、私にとっての真理
人間個人にヘーゲルは焦点を合わせられていない、遠い未来にくるであろう真理は人間味のないものだと否定したキルケゴール。
「私にとって真理だと思える真理、私がその為に生き、そとために死ねるような真理」のために。
真理へ⑥ 当事者になろう!サルトル、自由の刑と、歴史の大部隊
サンジェルマン通りという洒落乙な通りに通い詰め、奇抜な服装や髪型をした今時の若者と哲学をする。彼は、究極の真理のための進展を我々の手で行おう、と言った。
サルトルの自由の刑とは、正しさを設定されないまま、好きにしろ、と言われている我々の不安定な状態というもの。何の選択も残念ながら自由である、あらゆる価値観の選択が自由である、その選択を自由に選んだのは、他ならぬあなたである。
サルトルの時代においての共産主義への熱は、資本主義社会が主流となった当時に、ヘーゲルの弁証法の永劫成長がしかしいつかは否定される事もある、つまり資本主義も否定されうる、その中でサルトルの「歴史への参加/人類の理想の社会、真理に向かって進展させる歴史という大舞台」に立つこと、反社会的な運動は、つまり歴史の当事者として歴史に参加する方法だった。
真理へ⑦ 未開のフォルム、或いは歴史。レヴィストロース、未開の構造
レヴィストロースは西洋文明の外側に居る「未開人」の彼らが「西洋とは別の歴史」を生きる事を発見する。社会システム、構造を見つけるのである。
近代の西洋哲学における歴史は唯一の究極の真理に向かうが、レヴィストロースはその単一性を否定する。それにより、サルトルの哲学は影響力を無くしてゆく。
真理へ⑧ 本質から効果へ。デューイ、プラグマティズム
近代哲学は、信仰によって真理を目指す中世哲学を否定する。そして現代哲学は、理性によって真理を目指す近代哲学を否定した。
プラグマティズムという実用主義とは、真理の追求を二の次とし、まずはその実用性を探す。本質へ向かう矢印が効果へ向かい反転する。
デューイの道具主義。有効性があれば、それは真理と呼びうる。
真理へ⑨デリダによる脱構築
デリダのポスト構造主義、西洋批判と真理批判
音声中心主義として西洋哲学を批判。ざっくりいうと、話し手中心主義。意図と解釈の間にある発話と聴くこと。そこにおける意図を知る為のゲームの中で、例えば発話者が死者であった場合、我々に意図=真理を手に入れる事が出来るのか? という問題提起。絶対的真理への欲望の否定。