蝶
俺はいったい何をしたんだ、彼女に。
町の隅にある、小さな公園のベンチに腰掛けて、晴れた日の午後の間中、俺はそのことを考えていた。まず彼女との出逢いから。
大勢の人間が飲んだり踊ったり、喋ったりしている間をすり抜けて、彼女が俺に近づき、出ようといったんだ。俺俺はその時、ちょっと信じられなかった。彼女はそこにいる女の中では、美人の方だったし、洋服のセンスもよかった。プロポーションもまあまあだった。実際、何人かの男が彼女に色目を使っているのを俺は見ていたんだから。
まあとにかく、俺たちは外に出た。出がけに白と茶のどっちにするか迷って、白い麻のジャケットにしてよかったと、俺は思った。彼女の白いボレロとピッタリだったからね。
カフェバーに入って、一時間ばかり身の上話のようなものをしたっけ。横浜の外れに両親と住んでいて、あまり有名でもない短大に通っているという彼女の話はたぶん本当だろう。彼女の視線や表情に漂う素直さ‥‥かな、俺がまず惹かれたのは。
俺はそんな彼女に対して、嘘しか言わなかった。というより言えなかったんだ。昼間は毎日パチンコに通っていて、夜は気が向いた日だけスナックでバイトしてるなんて言ったら、どんな女も軽蔑をはっきり顔に表すことを知っているから。
今考えてみると、それがあとに続く嘘の始まりだった訳だ。学生だという嘘、ごく普通の親がいるという嘘、他に恋人はいないという嘘、そんな嘘の連続も遊び好きの学生というイメージを保てば結構ばれずにやっていられた。
ぼんやりと公園を見回すと、隅っこの背の低い木の茂みの合間から、ありふれたアゲハ蝶がひらひらと飛んでいった。
男が蝶で女が花だなんていった流行歌があったけど、あれは逆だ。俺は花のように動かなかったのに、彼女が勝手に飛び立っていったんだ。
もしかしたら俺よりいい花を見つけたのかもしれないと思うけど、でもやっぱりそれは信じられない。
彼女にとっては俺が最高の男だったはずだ、と俺は思っているさ。
彼女が逢いたいというときに、いつでも逢ったし。もっとも俺はいつだって相手の都合に合わせられる生活をしている訳だから、当たり前かもしれないけど。
でも、彼女のわがままをずいぶん聞いてやったものだ。雨の中を彼女が置き忘れた荷物を取りに喫茶店に走ったこともあった。駅で待っていた彼女は戻った俺の姿を見て吹き出したんだ。
「濡れ鼠っていう言葉がまったくぴったりだわ」だってさ。『この野郎!』って叫びたかったよ。
横浜のベイブリッジに行った時は悲惨だった。車がびっしり渋滞しているところへもってきて、雨が降りだした。おまけに俺の車、途中でワイパーが動かなくなっちゃってさ、前がほとんど見えないんだ。俺が必死になってるのに、彼女は隣でカセットに合わせて歌なんか歌ってるんだ。
ほかにも何度かあったよ、『この野郎!』って叫びたいときが。だがそう叫んでしまえばお終いだって思ったから、我慢したんだ。俺にしちゃ珍しいくらいおとなしくしてた。何しろ、親の金でのんびり大学に通ってるぼっちゃんだからね、おっとりしてなくちゃ。
演技と嘘の連続、もう投げ出したいと思ったこともあったけど、でもやっぱり彼女に惚れてたんだな、それに堪えられたってことは。
今少しほっとするところがあるのは、もう嘘をつかなくていいからなんだろう。
親子連れが俺の前を通りすぎた。若い母親が俺の方を胡散臭そうな顔で振り返り、何か盛んに喋っていた小さな女の子がふっと黙り込んだ。短いスカートが女の子の動きに合わせて揺れている。そのそばをまたアゲハ蝶がひらひらと飛んでいた。
親子の姿が見えなくなると、思いっきりよく伸びをして、深呼吸してみた。すると何んだか急に身が軽くなったように感じて、俺まで蝶のように飛べそうな気がしてきたよ。
1990年作