たまたまウィキ界隈を散策していたらふとなぜか
渡瀬恒彦さんが気になって調べてみた。
おやじは『自分で出したいというのは個性ではなくて、
組織のためや、誰かのためにという思いでやって、
自分を殺して殺してやって、
それでもにじみ出るものが個性だ』と。
これ、ご子息が語る渡瀬恒彦さんの逸話。
この「個性」に関する考え方は談志と全く同じだ。
最近、「全ての自称は痛いだけ」と思うようになってきた。
世間様に認められてこそ本物なのだ、と。
周囲にイメージをもっていただくようになるまでの努力=他人に自らを理解してもらうための投資。
つまり、個性とは時間をかけて造成するものなのだ。
これを飛躍させると、自分の人生は実は他人のもののように思えてさえくる。
なかなかそういう境地にまではいかないけど、
いつだったか随分前だが、酔っ払い客に絡まれていた駅員さんの左手薬指の指輪を見てて、
「家族のために堪えているんだなあ」と胸が熱くなったことがあった。
石田ゆり子のあのコーヒーのコマーシャルがときめくのは、ここだと思う。
こんな姿勢になったからか、仕事は全てボランティアではないかとも思えてきた。
だって基本、人から依頼されて成立するものが仕事なのだから。
無論自分でやりたい仕事もそれはそれであるけど、
でもだからこそ、それに呼応して応援してもらうのは他人様なんだから、
やはり世の中他人様ありきなのだ。
そういう他人様ありきに考えてみると、
やはり仕事は全てボランティア精神で取り組まなくてはいけないのかもしれない。
地道で遠大な個性を築くために一日、一日がある。
やはり評価は他人が決めるものなのだ。
天下の大師匠 談志 の
無茶振りに耐えつづけた9年半で手に入れた、
”笑う”コミュニケーション術