落語を師匠から教わる。

その師匠のコピーから入るのが古典落語の掟。

音源をテープ起こしし、

まるで楽譜のように、

クレシェンドやら休符やらピアノピアニッシモやらを、書き込み、作る。

自分はいつもこうして、「自分用上演台本」を構成する。
 

談志をベースにそんな形でもって落語を続けてきて

、完全コピーだと本人は思っているが、

ただの劣化コピーにすぎないと気づくのが前座修行。

 

この部分は、耳や滑舌の良さという天性の気質に左右されがちな領域である。

大半はここで嘆いて辞めてゆく。

コメのできない土地だと、気づくのだ。

 

それを「じゃあ、蕎麦を、作るか」と切り替えた人間が、

プロとして生きてゆけるのかもしれない。

それへの徹底工夫を努力と呼ぶ。

 

ないものを必死で補う行為の積み重ねによってそれらを克服し、

全く師匠と同じリズムとメロディとトーンで語ってもまるで受けない。

 

これが第二の修行。

二つ目ランクか。


そりゃそうだ。

イチローと同じ練習をこなしても、イチローにはなれないのだから。

 

本を読むのもここと同じだ。
本に答えはない。

答えを出すのは自分なのだ。

ヒントを探るためにあるのが、本だ。

 

イチローの練習メニューはイチローが出した答えなのだ。

その答えを丸写ししてどうするんだ。

つまり、書いた人間より賢くなる覚悟を持って読まなきゃわからないのだ。

 

芸はつくづく翻訳力だと悟った昨晩だった。

月亭方正さんの「宮戸川」は見事にいい意味で決壊していた。

 

コピーしかやってきてないで、

口調だけで名人ぶっている凡百の落語家が演じる「宮戸川」を、

その波で飲み込んでしまう破天荒さがあった。

 

「宮戸川ってこんなに面白い噺だったっけ」と

楽屋のモニターで観ていてそう思った。

 

昨晩は、宮戸川の氾濫と名付けたい。

 


日頃身体を張って第一線で笑いを取るメジャーなお方の、

その落語への翻訳力はハンパなかった。

この翻訳力はミッキー亭カーチスさんにも通底する部分で、

談志が看破していたものだ。

 

自分が感動して聞いた名人たちの落語を、

自分の個性でどう翻訳してゆくか。

 

逐語的にではなく、そこに戸田奈津子ばりの思い切りの意訳が施せるかどうかなのだ。
 

これはむしろ仏教の「如是我聞」に近いかもしれない。

翻訳力とは聞いた側のアレンジ能力でもある。

 

翻訳力は伝える力の基本。

キャッチボールが相手の胸元という取りやすいところに投げるように、

受信者サイドにも、わかりやすい形で、届けられなければならないものだ。

そのさじ加減が、個性となる。

 

いい刺激になった。

方正さんには早速メールで「一緒にやりましょう」とお声がけいただいた。

 

地獄の後の極楽のような日となった。

 

やはり、一昨日あの現場で怒鳴りつけないで、よかった。

 

「笑ってはいけない24時」のみならず、人生は「怒ってはいけない一生」なのかもしれない。

 

昨日のお客様は相当な得をしました!

 

 

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