陸上のことなんか完全に不案内な俺は、中二病の中3の長男坊から知識を得ている。
トイカツさんからのご紹介でご縁があって北京五輪の400mリレーの銅メダリスト塚原さんとは仲良くさせてもらってはいるが、
「何言ってるんだよ、パパ、日本はいつも決勝には残るぐらいのリレーはお家芸なんだよ」
とは初めて知った。
ついでにいうと「お家芸」という言葉を覚えたことにも、嬉しくなった。
バトンパスのレベルが世界最高峰とのこと。
これはやはり「お箸を使うから」なんだと思う。
細やかな作法は日本人の真骨頂なのはそういうDNAが受け継がれているからなのだろう。
ルール改正でバトンがあれより大きくならないことを切に祈る。
俺自身も愛用している「五本指ソックス」だが、
ヤンキース時代の松井選手もかなり好んでいたらしく、足の踏ん張りなど効能がかなりあるので、チームメイトに強く勧めたらしいのだが、やはり「履きにくい」とのことで定着しなかったらしい。
よくも悪くもアメリカ人は大雑把なのだ。
ミクロにこだわる日本人と五本指ソックスすらめんどくさがるアメリカ人。
無論一長一短だから、どちらが上でどちらが下というわけではない。
精密機械のようにボールの配給位置までこだわる野球も、力対力のぶつかり合いの野球も、共に面白い。
スポーツはどこまでもおおらかなのだ。
大胆かつ繊細こそが面白い。
師匠も両方兼ね備えていた。
10円単位のことで、何時間も金融機関にクレームも入れていたこともあった(ちょい意味が違うかな)。
「『お先に失礼します』じゃねえ、馬鹿野郎!『お先に失礼させていただきます』だ!」
そのことだけで数十分怒られたっけ。
言葉はミクロにこだわれ。
それぐらい人は敏感に受け止めるんだ。
その言葉を生業にする人生を選んだのなら覚悟を持て。
ここは他所とは違うんだ。
いまならそんな補助線も引きながら解釈できるのだが、その時分はもう全面的に受け止めるしかなかった。
泣きながら、耐えながら、あの頃は受け止めてきた。
お箸の国から生まれた文化たる落語は、まるでガラス細工のようでもある。
一言のさじ加減で、与える印象はまるで違ったものになってしまう。
過酷な前座修行はやはり合理的だったのだ。
談志イズムというバトンを受け継いだ弟子たちはそれぞれの思いを落語に反映させている。
無論落語に限らない。
バトンは魂だ。
受け継いだ人間は、渡してくれた人間が目の前でたとえ倒れて潰えたとしても、前を向いて次の走者に向かって走り続けなければならない。
リレーや駅伝が感動を呼ぶのは、人間の根源的な姿がそこに描かれているからだ。
バトンは何を意味するのか。
歴史、遺伝子、思い、価値観、こだわり。
誰から受け継ぎ誰に渡すのか。
「学校の先生って、尊敬したいか殺したいかどっちかしかいないよな」。
子供たちが笑う。
「環境保護、環境保護って言うけど、それは人類滅亡しかないからな」
「おう、そうだよね、パパ」
「師匠の言葉だよ」
「すげー❗️」
バトンは確実に受け継がれている。