私が小学生のとき、父は慈恵医大予科(今は消滅した教養課程に相当)の教師をしていました。予科校舎のすぐ近くに住んでいたので、私が学校から帰ると、何人もの生徒が縁側に腰掛けたり、座敷に上がりこんで議論を戦わしていたのを思い出します。彼らの会話では、オペ(手術)、ルンゲ(肺)、シャッテン(影)、デメンチャ(痴呆症)などのドイツ語が飛び交っていました。
小学校への通学路に、この辺りでただ一軒の統文堂という本屋があり、時折「ノイエ ザッハリッヒカイト入荷しました」と張り紙がしてありました。Neue Sachlichkeit が、新即物主義(当時のドイツの芸術思潮)だと知るのは旧制高校生になってからですが、予科生徒の年齢(17歳~20歳)で、ドイツ語での雑誌を読む者がいたことが分かります。
日独防共協定締結を祝して、昭和13年12月、当時としては珍しいプロペラが4つのドイツ機が飛来しました。出入りしていた学生が、ベルリン中央郵便局気付で「私は飛行機が大好きな日本の少年です。資料を送ってください」と英語で代筆してくれて、帰途につく機に託しました。2機で飛んできていたのですが、その1機がマニラ湾に不時着し海中に沈んでしまい、郵便物は先方に届かないだろうと諦めていましたが、忘れた頃に分厚い郵便物が届きました。当時のドイツが誇る戦闘機メッサーシュミットの設計図、ルフトハンザ航空のパンフレットその他であったと記憶します。ドイツ人のこの律義さを、私は何度も見聞きしますが、それは追々紹介します。