関係者の皆様に心からの敬意をこめて



『第三舞台』との出逢いは 高校演劇時代。


それは衝撃でした。


演劇界は第二次小劇ブーム真っ只中。


演劇人じゃなくても耳にする名前

野田秀樹さん、三谷幸喜さん

生瀬勝久さん、渡辺えり子さん…それぞれ、同じ年代にプロの小劇団を牽引していた人たちです。


その中でも 群を抜いていたのが

鴻上尚史さん率いる 『第三舞台』でした。

演劇に詳しくない人でも

筧利夫さんや勝村政信さんはご存知のはず。

『第三舞台』は、彼らが所属されていた劇団です。


それまで

シェイクスピアものや、海外戯曲

文学座や俳優座のような新劇系、

日本童話ベースの戯曲や学生向け戯曲にしか

免疫がなかった私。

小劇も、知っていたのは 風間杜夫さんや平田みつるさんがいらした、つかこうへいさんの舞台くらい。


第一次小劇場ブーム…寺山修司とか いわゆるアングラ系演劇とは大学に入ってからの出逢いなので

『第三舞台』とはそれをすっとばしての出逢いでした。



床に思いっきり叩きつけられたような衝撃だった。

打ちのめされた。

ショックだった。


悔しかった。


悔し紛れついでに、

こんな演劇が存在していいのか?!


と思った 。


認めたくなかった。(笑)   

そんな生意気盛りな高校生😅


『第三舞台』に出逢わなかったら

私の視野は狭いままだったろうし

人との関わり方も小さく狭いままだったろうし

価値観や感性も違ってたろうし

イギリスに留学もしてなかったと思う。


さて。

そんな 『第三舞台』と言えばのひとつが

『朝日のような夕日をつれて』なわけですが

これは 私はピンポイントで1991年版オンリーだった。


その前の87年以前は まだ出逢ってなかったし

1997年の時はイギリスに住んでいたし

2014年は いろいろが合わなくて断念したから。


だから 今回の、2024年版は

1991年版からのワープなわけです。


正直、観に行こうかどうか迷いました、随分。


青春時代に受けたあの衝撃の記憶を

美しいままで保存しておきたいとか

役者が全員あの時とは違うからとか…。


結論。


行って良かった。


大学時代、足しげく通った紀伊國屋書店、

小劇場と言えばの、懐かしの紀伊國屋ホール。


あの空間ってすごいよね。

もちろん、大劇場には大劇場の良さがある。

神秘的な荘厳さとか 身が引き締まる高揚感とか。

けど、小劇場で味わう空気の音や匂いは

大劇場にはないもので、

そこで味わう高揚感は、大劇場でのそれとは別のもの。

身体が喜びの声をあげて一気にあの頃に戻る。


そしてーーー

溢れ迫りくる言葉の波、波、波、波!

うねり、怒濤🤣🤣🤣

そして、 いやちょと待て、パワーアップしてるやん、熱量😂


全身全霊で言葉を発し動き続ける役者たちから

しぶきとなって散る汗が 

美しい灯りの下でキラキラ光って

舞台効果のひとつとなる、輪をかけた美しさ。

前から13列目でもそれがハッキリと黙視できる。


押し流されないように 必死で食らいつく。


91年版、若さゆえに消化できなかった言葉の数々が

今や 脳の老朽化故に 取りこぼしそうになる。

いや、噓、ちょっと取りこぼした、正直😂

だけど、たるんでた脳が

覚醒していく音が聞こえた。

頭の中、心の中、いろんなものが剥がれていく。

これがまた心地良いんだな。


ストーリーの基盤は同じだけれど

時事ネタは全て現行版。


やっぱり『変わらない。そして 変わり続ける』んだなぁ…


子供番組から政治や科学まで

幅広く網羅した時事を織り混ぜた台詞の、絶え間ない放出。

まるで間髪なし1000本ノック。

しかもショート向けの、鬼キレッキレなやつ。

エラーした玉をとりに行ってるうちにまた打ち込まれるというね🤣💦

構えることすらできないねん😂

会場はもちろん、どっかんどっかん。


お客さんの年齢層は ほぼ 私くらい~以上。

これはおそらく、間違いなく 第三舞台愛好者たち。

若いコたちも結構いた。

これはおそらく、鴻上さんとか第三舞台ではなく

出演されてる役者さんたちのファンかな。

あとは、演劇人たち。


客層がどうであれ

客席とのエネルギーの交換で生まれる世界

これがまさに、“ 第三舞台 ” 

もう『第三舞台』という劇団は無いのに

つい 何度も口が滑って

『第三舞台』と口走ってしまう、そんなステージだった。


このボルテージで シングルキャストで

1ヶ月。しかもそのうち数日はマチソワ。

マチソワ…

そう、私が観た回は ソワレだった。

なのに何故あんな異常なボルテージなのだ😂

発声も身体も衰えもせず。


これは、あらゆる舞台人は勿論だけど

ふだん演劇を観ない人でも

舞台人じゃない人でも

読書が好きという人には是非体感してもらいたい。

『観る』っていうか、『体感』。

言葉のアトラクションだよもはや。


三度の飯よりも書物が好きな自分だけれど、

書物を読めば読むほど、知識が備わるけれど、

実体験や経験を数多く積まずに書物に頼ると

実は理解してるつもりなだけで

理解してなかったり

 とか

間違った捉え方をしていたり

 とか

書物で得た知識を強靭な武器だと勘違いしたまま

脇目もふらず突き進んだり

 とか

書物で培っただけの固定概念だとか

正統とか伝統

 とかに

しがみつくことだけに注力しがちになる。


専門家や研究家と称する人たちや 著名人たちが

書物やネットに書いたことが全てで正しいと、

マインドコントロールされていく。


また

実体験や経験をさほどしていないのに

それらの書物でインプットしただけのことを 

あたかも自らも経験者のように

無垢な人々に撒き散らす人もいる。


そういうものに直面しつづけると

脳ミソも心も 

何度も揚げ物をした、

もしくは 限界を越えて走り続けたエンジンの、

ドロドロの油の渦、

真っ黒なブラックホールのような油の闇 になって


ある日、思考が停止する。


けど

『朝日…』を観ると 至るところに新しい扉があって

またのそ向こうに扉があって

また…

って、マトリョーシカみたいに。


そうしているうちに、自分がいかに

凝り固まった脳を後生大事にして

胡座をかいていたかに気づかされる。

そんな自分がリセットされる。

意味のないものの意味に遭遇する

という不思議な感覚。


何か作品を読んだり観たりした時に

全て意味を見出だそうとしてしまいがちだけれど

そうしなくてもいいものがあってもいいはずだ。


言葉って結局のところなんなのだろう、

自分ってなんだろう、

他者ってなんだろう、

自分と他者の繋がりってなんだろう……


っていう その答えは

これを観たら変わるかもしれないし

変わらないかもしれない。

答えは出ないかもしれない。

待ち続けてもゴドーは現れないように。

ゴドーが何者なのかは、見る人によって違うように。


それでも、新しい扉が そこにあるから。

新しい扉が生まれ続けるから。


ゴドーを待つより 探しに出てみるのも

いいかも知れない。


「書を捨てよ 町へ出よう」



最後に。

懐かしかったな 135の我爱你。

135、当時よく聴いてたっけな。

美しいほどカッコいいシーン。

ズルいんだよなぁ。

むちゃくちゃしてるのに 、

バカやってるのに、

カッコいいってさ。


ほんと、ズルい。