皆さんこんにちは、蓮夏一照です。
今日は天親菩薩が語る“仏になる心”の話。
これ、「ついに悟ったで!」って話かと思いきや、ぜんぜん違う方向にオチていくんです。
そのズレ具合が、実におもしろい。
●浄華の聖衆=「花から生まれた人たち」
如来浄華の聖衆は 正覚のはなより化生して
衆生の願楽ことごとく すみやかにとく満足す
まず和讃に出るこのイメージ。
「浄華の聖衆は、正覚の花より化生す」
仏さまの世界の人々は、泥の中から生まれた蓮ではなく、悟りそのもの・仏智そのものの花から生まれる。
「あんた、悟りの“生花アレンジ”から生まれたんやで」
……なんやそれ、とツッコみたくなるけど、意味はこう。
●成仏は“心の修行の結果”じゃなく
●本願の光の中に置かれた“存在の変化”
つまり、努力の果てじゃなくて“向こうの働き”。
●「弘誓の智海から生まれた天人」は固定観念を捨ててる
天人不動の聖衆は
弘誓の智海より生ず
心業の功徳清浄にて
虚空のごとく差別なし
続く和讃。
「天人不動の聖衆は、弘誓の智海より生ず」
弘誓=本願の広大な誓い
智海=仏智の海
そこから生まれた存在は、
「虚空のごとく差別なし」
「評価表?偏差値?せやせや、あんなん全部“空”やで。仏の世界に持ち込むの禁止や」
という感じ。つまり、本願のはたらきの上では「誰が上とか下とか」まったく通用しない。
●そして天親菩薩の核心——「無碍光に一心に帰命」
天親論主は一心に
無碍光に帰命す
本願力に乗ずれば
報土にいたるとのべたまう
和讃にこうあります。
「天親論主は一心に無碍光に帰命す」
この“無碍光”とは
“どこにも引っかからず、何ものにもさえぎられない光”。
「どんなややこしい性格でも、どんな人生遠回りしてても、全部そのまま貫き抜けて照らす光や」
天親は、それに“一心に帰命”した。
では、その“一心”って何?
●名言ラッシュ! 一心=金剛心=菩提心=他力
尽十方の無碍光仏
一心に帰命するをこそ
天親論主のみことには
願作仏心とのべたまえ
願作仏の心はこれ
度衆生のこころなり
度衆生の心はこれ
利他真実の信心なり
親鸞聖人が歌う定義の畳みかけがすごい。
「信心すなわち一心なり
一心すなわち金剛心
金剛心は菩提心
この心すなわち他力なり」
「信心いうたら“一心”や。
一心いうたら“金剛心”や。
金剛心いうたら“菩提心”や。
で、その菩提心は“あんたの心”やのうて、“向こうから届いた心”や」
つまりこう。
●悟りの心=本願によって贈られる
●信心とは“自分の理解”じゃなく“阿弥陀のはたらき”
●だからこそ、金剛(壊れない)
親鸞聖人が「信心決定」という時、
それは“自分の心が固まった”のではなく
“阿弥陀の心に包まれた”という意味です。
●回向とは“仏になったら出戻りする”こと
和讃の締め。
「願土にいたればすみやかに
無上涅槃を証してぞ
すなわち大悲をおこすなり
これを回向となづけたり」
「浄土ついた!もう楽させてもろてええやん」
……と思ったら、
「いやいや、戻って衆生助けるでー!」
という“出戻りシステム”。
これが還相回向。
親鸞聖人の救いはここまで含んで “完成形”。
■法話
●仏になる心は“自分がつくる”のではなく、
●“阿弥陀仏がわたしに置いたもの”である。
これが天親菩薩→親鸞聖人へと流れる真髄です。
だから、今日の不安や迷いは「信心が弱い」のではなく、“阿弥陀に照らされる場所が増えた”だけ。
一心とは、修行の成果ではなく、本願力がとどいた証。
そしてその心は必ず次の衆生を照らしに戻っていく。
それが「願作仏心」=“衆生を度す心”です。