■今日のテーマ:親鸞聖人の“聞く”は、耳じゃない


みなさん、「仏法を聞け」と言われたら、

「はい、耳で聞きます」と思いますよね。


…ところが、親鸞聖人の“聞く”は、そうじゃない。


仏の願いが、

心の骨まで染み渡って

もう疑いようがなくなること


これを“聞く”と言う。


耳でポン、心でスカッ…

そんな私じゃダメってことです(笑)

■「仏願の生起・本末」ってなに?

急に難しい言葉が出たので、

一照流に分かりやすく。


●生起(しょうき)=スタート地点


なんで阿弥陀さまは、

わざわざ法蔵比丘になったの?


仏さま、もともと“完全体”。


なのに、


「こんな奴(=私)ほっとけん」


って、修行の世界に飛び込んだ。


仏界のドラマですよ。


「あんた、なんでわざわざ

泥んこ保育園に就職した?」

「…あそこに放っとけん子が

おるんや」


みたいな話(笑)

●本末(ほんまつ)=ゴール

48の願いを積み上げて、最後にできたのが


南無阿弥陀仏という“完成品”


言い換えれば、


仏願の努力の結晶=

ナムアミダブツ


これを聞くってことは、

「お念仏 = 神頼み」じゃなく


お念仏 = 仏の決意表明


と受けとること。

■“疑う”は最大の罪?

親鸞聖人、ここはきびしい。


疑うことこそ、いちばんの罪


たしかに…


誰かが真剣に

「君のために人生を賭けた」

って言ったのに、


「ほんとですか?」

「裏あるでしょ?」


って返したら、そりゃ失礼。


人間相手でもそうなのに、

仏さま相手ならなおさら。


信者「阿弥陀さん、ほんま助けてくれます?」

阿弥陀「はい、誓ってます」

信者「でも私、ややこしい奴ですよ」

阿弥陀「だから誓ったんです」

信者「ほんまにええんですか?後悔しません?」

阿弥陀「するかいな。腹くくっとる」


…これが本願の生起を聞くってこと。


仏さまの“覚悟”が、こっちにズシーン。

■今日のまとめ

  • 聞く=徹底的に受けとる
  • 法蔵比丘は“なりたかった”んじゃなく
    ならずにおれなかった
  • 南無阿弥陀仏は
    仏の努力の結果
  • 最大の罪は
    この慈悲を疑うこと


■じんわり一句


南無とはね

頼る言葉で

感じ入る声



今日も一声、

「南無阿弥陀仏」。


仏さまの覚悟、

胸の奥で、しみてきますように。