智慧の念仏うることは

法蔵願力のなせるなり

信心の智慧なかりせば 

いかでか涅槃のさとらまし


親鸞聖人は、浄土へ参って仏に成ると

“本当にうなずける”のは、

信心という智慧のはたらきによる、

と教えてくださる。

ではその「智慧」と「知識」はどう違うのか。


知識は道理を解き、因果を説明する力。

智慧は、物の尊さ・値打ちを感じ取り、

「もったいない」「粗末にしない」

と手を合わせさせる心のはたらき。

どれほど知識が積もっても、

智慧が伴わなければ、

人生の出来事を“よく受ける”力が育たない。


人生は「わかったから始める」のではない。

事実が先、理解は後だ。

生まれる時も、結婚も、仕事も、

「たぶんこれで」と歩み出し、

あとから学び直す。

最後に来る“無常の風”――

死でさえ、わかる/わからぬを待ってはくれない。

ゆえに要は、

与えられたものをどう受け止めるかである。


ここで智慧の念仏が働く。

南無阿弥陀仏は、私の計らいを超えて

「受け止め」を導く声だ。

知識の眼には浄土は“見えない”。

だが、念仏に照らし返されると、

見えないからこそ受けてゆける道がひらく。


「今日の一杯の水にも命がある」

「叱ってくれる人こそ有り難い」――

こうして日々の些事が“恵み”へと反転する。

上手く受ければ幸いの種が流れ出し、

下手に受ければ恵みも不満に変わる。

受け取りを正す力、これが智慧であり、

その源が法蔵願力である。


やがて最後のとき、理屈は要らない。

ただ、聞き慣れた名号が胸の底から湧く。

「一足先に参らせていただきます」。

迎えは遠くない。

南無阿弥陀仏が迎えの声となって、

今ここに届いている。


知識で世界を測ることは大切だ。

けれど、

測りきれないものを尊び受ける心がなければ、

人生はすぐに行き詰まる。

念仏は、その心を育てる如来のレッスン。

今日も与えに遭って、受け止めに還る。


南無阿弥陀仏。